戸山翻訳農場

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セメズディン・メヒメディノヴィッチ『林檎についた歯型』の訳者覚え書き     アレクサンダル・ヘモン

 いとも簡単にロバート・フロストは言った。「詩とは翻訳において失われるもののことである」。この偉大なる詩人は、大きな移動をしなかったし、彼から見れば本物のアメリカ的な言語や経験に通じていたし、そして、故郷の彼方に目をやる必要がなかった。しかし、人生や詩の中心を占める出来事が、土地を追われることだとしたら、物語――そして詩――はまったく違ったものになる。ボスニアの詩人セメズディン・メヒメディノヴィッチにとっては、翻訳は、人生と詩において中心的な課題である。サラエボが包囲攻撃されていたあいだ、彼はそこにいた、それから、ここ10年間はワシントンDCに暮らしてきた。ほかの何百万人もの移民のばあいと同じように、翻訳は、理論の問題ではなく日常の問題になっている。母語に根っこをもっていた自分というものが、英語になるとなにか違うもののように見えている――存在しないことを通して存在している、言うなれば、『林檎についた歯型』に出てくる「神聖なる湖岸の家」の幽霊みたいなものになっている。

 フロストが正しいとすれば、移民詩人の人生は、日々翻訳される定めにあるのだから、失われるもの、存在しないものばかりになる。素人ながら『林檎についた歯型』を翻訳する際に課された難題は、そうした失われて存在しなくなったものを、言語における断絶をどう伝えるかだった。断絶は句読法においてもっとも目立ち、文章の呼吸がぎこちないものになってくる。故郷を追われた声は、けっして滑らかには聞こえない。

 それでも、その声は、刺激的に、新鮮に、挑発的に聞こえる。ヨシフ・ブロツキーとまったく同じく、メヒメディノヴィッチは、ここアメリカで暮らし、書いているがゆえにその詩はほとんど時間を置かずに英語に翻訳されるという、奇妙で魅力的な立場にいる――翻訳の()可能性が、いつもすでに、彼の詩文には刻まれているのだ。だから、メヒメディノヴィッチが翻訳の問題に散文を通して近づいていくとしても、ぜんぜん驚きはしない。いかにもフロストに信書を送っているかのようだ――詩を翻訳することはそれを散文にすることであり、それゆえ、詩を失うことになるのだ、と。書くこととは、いつだって、翻訳することである。詩は、いつだって、どんな詩でも、消え失せる危険にある。フロストの古めかしいアメリカの声をわたしは愛しているが、しかし、彼は間違っている。詩を追求するということは、つねにほとんど失われたものを取りもどして手放さないということである――詩とは、消失する人間の存在や言語についてのものである。価値のある詩というものはすべて、翻訳の()可能性をそのなかに刻み込んでいる。価値のある林檎はすべて、「少なくともふたつの味がする」。「詩とは翻訳において得られるもののことである」と書いたのはヨセフ・ブロツキーである、彼は故郷を追われることの意味を知りつくしていた。彼が正しい。(訳:有好宏文)