戸山翻訳農場

作業時間

月曜 14:45~18:00

木曜 16:30~18:00

金曜 18:00〜21:30?

ブログ



オーヘンリーゆかりの地を辿る                                                      The New York herald, June 11, 1922            近藤みか・訳

 オーヘンリーが初めてBagdad on the subway[1]を舞台に短編を書いた頃、ニューヨークの心臓はまさに彼が居を構えたアーヴィングプレイス55番、現存するワシントン・アーヴィング邸[2]付近、そして特別居住区であるグラマシー・パーク[3]の角だった。

 オーヘンリーの生前、これらの地域はマンハッタンにおける文芸家のオアシスであり、”high brow”(インテリ)集団の住まいが八ブロックも続き、彼らは近辺の古本屋街で立ち読みをし、ユニオンスクエアやスタイブサント・パークの木陰で――グラマシー・パークの鍵を持っていた者もいただろう――小説や詩の構想に思いを巡らせ、オールドミュンヘンやChubb’s restaurantに通っていた。これら二ヵ所はボヘミア的で、ナイトエンターテイメントに精彩や活気、非日常を求めたボルステッド法[4]以前の溜まり場だった。

 アーヴィングプレイスにある赤褐色で石造りの家は、オーヘンリーの理想の住まいであり、彼が遺産として書き残した三百篇のうちのいくつかが執筆された場でもある。この家を現在管理しているエリンウッド夫人の記憶によれば、“アメリカ版モーパッサン”は直感で世界を捉え、生涯ひっそりとした生活を送り、執筆活動中は何日も部屋に閉じこもり、思い切って外出するのは夜の間だけ、そうして向かう場所は角を曲がってすぐの古いドイツレストランかどこかの公園で、公園内では街の浮浪者と見分けもつかなかった。

 エリンウッド夫人の話では、オーヘンリーは隠遁者のように暮らしていて、屋根の下にかくまっている男の真価をその生前に知ることはなかったという。二階にある彼の部屋は現在エリンウッド夫人が所有しており、在りし日の短編作家を崇拝する人々、家主から何とか部屋を貸し受けようと悪あがきする人々が足繁く訪れる。建物自体は修復中で多少の作り替えが見られ、地上階にあった店舗はオフィスへと変わる予定だ。

 さて部屋の写真を見るとそこには小さな机があり、オーヘンリーはその机に向かい、三番街の角のオールドミュンヘンという飲み屋を舞台に“小さなライン城のハルバディアー(The Halberdier of the Little Rheinschloss)”という小説を書いた。隣接する建物の屋根裏にはオーヘンリーが即席でこしらえた寝床があった、というのも、彼自身のベッドはしばしば近所で出会った気になる浮浪者に使わせていたからだ。彼は概して周囲に控え目な態度で接したものの、浮浪児や放蕩者、競争社会の負け犬に対しては特別な共感を寄せていた。浮浪者たち、丁寧に言うなら“小銭を稼ぐ人(grafter)”を、五十五番地に迎え入れ歓待した男は、人間味のある対応で親密さを築く術を知っていた。

 彼の夜の行きつけはアレア家の“オールドミュンヘン”、またの名をショッフェルホールといい、こちらに掲載した写真は最後の所有者であったウィリアム・アレアから新しい権利者へと引き継がれたまさにその日に撮られたものだ。

 古びた暖炉の傍にあるテーブルが彼の指定席、これは全てのウェイターたちの間では暗黙の了解で、彼はその場所に腰かけてNo.18から給仕を受けた。No.18は、裏庭の塀にぴったりと張り付く古いツタのごとく、二十五年前に移民としてドイツから渡って最初に見つけたこの働き口にずっと務め続けてきた。ウィリアム・ワーグナーこそ、オーヘンリーの作品中に幾度か登場するNo.18のモデルとなった人物であり、奇妙な人々が“上司(Boss)”と所有物の交渉をする様子をひっそりと観察しつつ、ボルステッド法前夜をオーヘンリーがうまく渡り歩いてゆき、そのうち自分自身が故郷バイエルンへ帰るだろうと予期していた。

 「おやおや、」と言ってビリー、というのが彼の呼び名だ、は語ってくれた。「そうですね、私はもちろんヘンリー氏のことも彼がここで作品を書いていたことも記憶しております。あちらにある古びた甲冑具[と言って彼は暖炉の傍にある鎧を装着した像を指差した]を見ていつも笑っていらっしゃいました、そして以前の主人が若い男性を雇って、彼にあれを身につけさせ入口の前に立たせたとき、ヘンリー氏はまさにこちらの机でそれを小説に仕上げてらっしゃいました。」

 「スコッチハイボールがお好きでした。」とウェイターは続けた。「このお気に入りのお酒についても、時たま詩作されていましたよ。」

 「それは、」とウィリアム・アレアがこの会話に飛び入り参加してくれた。「“The Rubaiyat of a Scotch Highball[5]”の題名で発表され、私は彼の用いた言い回しをよく覚えています、‘酒は話を盛り上げるべきであり、ありあまるほど陳列されてしかるべきである’[6]。うちのレジ係も作中に描かれました、金髪で容姿端麗なドイツの子ですが、そこには‘髪は二十ドル金証券の色、青い瞳、その美の体系を前にすれば雑誌Julyのカバーガールだってモノンガヘーラ川を流れる石炭輸送船の料理人に見えるだろう。’と。彼女は理解できていなかったけど、激昂していましたよ、ヘンリー氏が彼女へささやかな興味を抱いたことを妬む人から話を聞いてね。その人が、君は真っ黒の黒人使用人に例えられてるよなんて言うもんだから。私たちのことを書いた部分をそれはたくさん翻訳しましたよ、ヘンリー氏がただ最上級の賛辞を送ったことを納得してもらうためにね。」

 「ヘンリー氏はここに1人でいるとき、分け隔てない態度でね。私の父や、私自身、ビリーのことをからかったものです。とっても楽観的で、そこがまた面白くって。笑い方を知っている人だった。その朗らかさがもっとも際立つのは、バーに文無し浮浪者を呼び込み、店一番の酒を注文するときでした。そしてそれはお食事や飲み物に留まらなかった。私は何度も二十ドル紙幣を両替しては、彼らに五ドルや十ドルを手渡す姿を目にしたものです。」

 「ヘンリー氏は、」とアレア氏はさらに続けた。「年季の入った赤い一画が大のお気に入りでした、もう解体されてしまったのですが、当時は壁にたくさんのドイツ語が書かれていて、それを見ては笑い声をあげたり、シンシナティの詩の悪訳だなどとおっしゃっていました。甲冑具を身につけた若者の物語の構想が書かれたのは、暖炉の傍のいつもの机のところですよ、その後“The Halberdier of the Little Rheinschloss”として発表されました。物語は細部に至るまでほぼ現実のまま、けれどバルコニーの出来事は創作として書き加えられたものですがね。」

 「原稿の最終稿の多くがここにありますよ、時おりそれぞれの題名の意図なんて尋ねられていたこともありますね、彼のお話を伺う限り、自分にも分からないと答えてらっしゃったようです――時に題名選びは、物語の内容よりも大きな心配の種だったそうで。」

 「この場所が残る限り、」とアレア氏は語ってくれた。「オー・ヘンリーの記憶は残り続けます。ワシントン・アーヴィングの記憶が読者家の間で香しく漂うようにね、彼らが日々行き交うその角に作家の懐かしき家が今も建っているのですから。ここを訪ねる人々は、まるでこの場所が彼の創作活動の記録かのごとく質問してきますよ、一方で彼が身を隠していた五十五番地への訪問客は多くないですが。」

 オールドミュンヘンは今日もなおニューヨークの名所だ。在りし日のドイツの酒場が忠実に再現されている。何本もの垂木に支えられた大きなホールも、ずらっと並ぶ輸入物のビアスタインも、ゲーテの肖像も、壁に描かれた詩句も、今なおこの場所にある。ドイツらしい場面の数々は、本場ミュンヘンの酒場でスケッチをしたドイツ人画家らによって持ち込まれ描かれた。奥行きと高さが演出されているため、この場所は実際よりもだいぶ大きく見える。

 ミュンへナービアが飲み明かされていた時代、オールドミュンヘンに集う客たちは、まさにオーヘンリーが求めていたままの鮮やかなコントラストを見せていた。それは彼が描き出そうとしていた味気ない現状と、日々と酒場とのおおきな落差が、さまざまに彩られた出来事や、くるくると変化する雰囲気、多種多様な人々に影響されて描き出す雰囲気との対照だった。まさにこの場で、“Little Old Baghdad on the subway[7]や“The City of Chameleon Changes[8]を閃いたのだ。

 “Whistling Dick’s Christmas Stocking[9]”で、オーヘンリーはようやく北部の読者へと紹介され、“Retrieved Reformation[10]はポール・アームストロング“Alias Jimmy Valentine[11]の脚本の元となっている。

 しかし、未完の絶筆となったオーヘンリーの The Dream”とは異なり、“Old Munich”の最終章はアレア家によって最後まで執筆された、そして同様に、アーヴィングプレイス五十五番地が息絶える日もまた近いだろう。金儲けの波は、文学・文化の在りし日の遺産を着々と浸食してゆくのだから。

 



[1] オーヘンリーはニューヨークのことをこう呼んでいた。(Strictly Business収録作”What you want”などに登場)その後、後続の作家たちはBagdad on the Hudsonと呼んだ。

[2] The Irving Houseのこと。Park AvenueThird Avenueの間。

[3] 交通量の多いパーク街から1ブロックも離れていないにもかかわらず、この辺りは静閑な住宅街であり、年間使用料を納めて入口の鍵を貸与された周辺住民しか利用できない。

[4] ボルステッド法(Volstead Act)は正式には国家禁酒法と言い、1919年に禁酒法に関する規定を定めた法律。下院司法委員長Andrew Volsteadにちなんで名付けられた。法は「この法によって許可される場合を除いて誰も少しでも酔わせる酒を製造しない、売らない、物々交換しない、輸送しない、輸入しない、輸出しない、届けない、提供しない」ことを示した。それは特に酒に酔うことを禁止していなかったため、摂取にお咎めはなかった。

[5]邦訳未詳。ルバイアートとは、ペルシア語ルバーイー(四行詩)の複数形で「四行詩集」を意味する。

[6] 作品の冒頭は以下のようである。

This document is intended to strike somewhere between a temperance lecture and the "Bartender's Guide." Relative to the latter, drink shall swell the theme and be set forth in abundance. Agreeably to the former, not an elbow shall be crooked.

[7] Henry, O. "A Madison Square Arabian Night," from The Trimmed Lamp: "Oh, I know what to do when I see victuals coming toward me in little old Bagdad-on-the-Subway. I strike the asphalt three times with my forehead and get ready to spiel yarns for my supper. I claim descent from the late Tommy Tucker, who was forced to hand out vocal harmony for his pre-digested wheaterina and spoopju." The Trimmed Lamp, Project Gutenberg text

[8]The Rathskeller and the Rose

He amassed the facts and the local color of Cranberry Corners. The village had not grown as rapidly as had Miss Carrington. The actor estimated that it had suffered as few actual changes since the departure of its solitary follower of Thespis as had a stage upon which "four years is supposed to have elapsed." He absorbed Cran- berry Corners and returned to the city of chameleon changes.

The Voice of the City1908)収録作。

「ビアホールとバラ」/理論社『オー・ヘンリー ショートストーリーセレクション』

[9] Roads of Destiny1909)収録作。

「口笛ディックのクリスマスプレゼント」/河出書房『O・ヘンリー・ミステリー傑作選』

[10] Roads of Destiny1909)収録作。「よみがえった改心」「よみがえった良心」など邦訳多数。平穏な暮らしを得た天才的な金庫破りジミー・ヴァレンタインと刑事の物語。

[11] 1910年の演劇。各地を回り上映され大変な人気を博し、1921年ブロードウェイ初演。1928年にはこの2作をベースとした映画作品も作られた。