戸山翻訳農場

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Saint Monkey by Jacinda Townsend              岡野桂

 『セイント・モンキー(原題: Saint Monkey)2014年に発表されたジャシンダ・タウンゼント(Jacinda Townsend)の小説である。1950年代のアメリカ合衆国ケンタッキー州の田舎町マウント・スターリングにあるクイーン・ストリートと、大都市ニューヨークのハーレムを舞台にして、わかちがたく結ばれた2人の黒人の少女が描かれる。ただ先まわりして述べておくと、けっして同性愛をめぐる物語ではない。むしろ、そのような従来の型にあてはまらない関係性が提示される作品である。

 

  それでもひとまず荒っぽくジャンルのふるいにかけるとすれば、舞台となった時代背景から思い浮かぶ期待にたがわず、公民権運動の高まりやジャズ音楽の流行を鮮やかに蘇らせた歴史小説に分類できるだろう。タウンゼントによる入念な歴史研究と時代考証に裏打ちされた描写は、1950年代の冷たい肌触りや熱っぽい空気感を見事に再現しているからだ。しかし、それらは文字通り、作品舞台の枠組みにすぎない。文章から嫌でも立ちのぼってくる残酷な人種差別や女性抑圧の実態などは、手の込んだ舞台美術がもたらす上質な副産物にすぎない。言い換えれば、この時代を扱ううえで欠くことができない空気感だから、描かれているという意味合いが強いのである。歴史を呼び起こすことが目的ではないのだ。

 

 有色系の人間が白人と同じ公共施設を利用できない無茶苦茶なルールを定めたジム・クロウ法をはじめとした背筋が寒くなる人種差別の生々しい描写は、1950年代から切り離せない現実として、あたかも緻密な舞台背景のごとく埋め込まれている。そんな暴力や差別といった負の要素だけではなく、ニューヨークの燦然と輝くアポロシアターの愉快な活気においても同じである。ジャズの歴史を紐解こうとする意図から選ばれたのではない。黒人の少女が田舎を飛び出して、ニューヨークで成功するというシンデレラストーリーに説得力をもたせられる現実的な選択肢が、おそらく天才ジャズピアニストだったのである。つまり、それだけでも作品として十分に価値があるほどに奥行きのある歴史的な細部は、小説を成り立たせる前提条件、いわば通過点として書かれているのだ。一言でいえば、そこにそれがあったから忠実に再現しておいたという感覚である。

 

 こうした歴史的な背景を整えると、タウンゼントは、本当に描きたかった2人の少女を舞台上に立たせる。幼馴染の2人は成長すると、別々の方向に目を向けようとするものの、どうしても絆を過去のものとして捨て去ることができない。まるで亡霊のように取り憑きあっていると表現したらよいのだろうか。お互いに相手を見えない枷で縛っているような依存関係である。『セイント・モンキー』は1950年代を生き抜いたマイノリティの少女たちの縺れた関係性を主題にした、おそろしく濃密な人間劇なのだ。

 

 ジャシンダ・タウンゼントは、2人の子をもつ女性作家である。経歴をさらうと、2010年ピュリツァー賞受賞作『ティンカーズ』のポール・ハーディングと同じくアイオワ大学の創作科課程を修了、M.F.Aを取得して、現在はカリフォルニア大学デービス校で教えている。その彼女の処女作がこの『セイント・モンキー』である。2015年には、極めて優れた歴史小説に与えられる「ジェイムズ・フェニモア・クーパー賞」を受賞した。第2作目として、子どもをテーマにした小説『Kif』が出版予定である。

 

 『セイント・モンキー』は、章ごとに語り手が交代する一人称小説である。語り手となるのは、オードリー・マーティンとキャロライン・ウォーレス。同い年で幼馴染の黒人女性であり、2人は補いあいながら物語を紡むいでいく。オードリーは分厚い眼鏡をかけて本ばかり読んでいる内気な性格。キャロラインは、母親が白人男性に強姦されたときにできた子であり、容貌は非常に醜いのだが、髪の毛だけはとても美しい。そして、将来は都会で女優になるという漠然とした夢がある。オードリーは明確な未来を思い描いていない。

 

 語り口のうえでは、知と愚、静と動、美と醜など正反対のイメージが強く喚起される。しかし、本作を貫くのは、そんな二項対立の図式や典型的な枠組みに当てはまらない、現実そのものというべき輪郭がぼんやりとした生のかたちを表現しようとする試みである。読者は2人の生を追っていくうちに、オードリーとキャロラインはけっして相反する人物ではないことを思い知らされる。2人は異なっているようで似ている。どちらの人生が成功であり失敗なのかという指標でさえ揺らいでしまうのだ。

 

 あらすじを紹介しておきたい。オードリーの父親はアメリカ軍の楽隊のピア二ストとして朝鮮戦争に送られて戦死する。彼は退役後の奨学金で医者になり家族を養うという夢があった。願い叶わず命を落とした彼の遺族年金は白人男性の半分にすぎなかった。父を失ったオードリーは、優しい祖父と、ぎくしゃくした関係にある母の3人でぎりぎりの暮らしをしている。母は昼夜もなく看護師として働き、子どもにかまうことはほとんどない。ただし愛情がないわけではない。貧しいなかでも、新しい靴を買うお小遣いをオードリーに与えるように無関心ではないのだ。家の庭には、祖父が据え付けてくれた白いブランコあり、オードリーはいつもそこに座って外を眺める。その視線の先、通りを挟んだ向かいの家に、親友のキャロラインが住んでいる。彼女は、両親と歳の離れた妹の4人家族。毎週金曜日になると、氷工場で働く父親のサニー・ボーイがプレゼントを抱えて帰ってくる。その姿を見つめながら、オードリーは、サニー・ボーイが自分の父であったらと空想する。

 

 幸せだったキャロラインの家は、父のサニー・ボーイが、母のマウリスを刺殺するという事件によって崩壊する。サニー・ボーイは監獄に送られ、キャロラインと妹のイマジーンは祖母に引き取られる。一転して貧しい生活をしいられようになる。学校でも、醜いキャロラインに対するイジメはなくなる。子どもたちはキャロラインを腫れ物のように扱うが、オードリーだけはキャロラインと交わり続ける。しかし、最悪なかたちで両親を失ったキャロラインは塞ぎ込み、オードリーさえも一時的に拒絶する。だがそれでも2人は、まぎれもなく親友同士であった。

 

 高校にあがると、キャロラインが彼氏をつくり、また2人は疎遠になる。オードリーの母ナイーザは、バーバーという金持ちの男性と再婚する。オードリーは立派な家に引っ越す。ところが、バーバーは、オードリーがひくピアノの音が気に入らなかった。しばらくしてオードリーには弟ができることになり、継父と折り合いがつかない彼女には、大きな家の納屋に新しい部屋が用意され、そちらに移される。オードリーは父のピアノの才能を受け継いでいた。娘の将来を危惧するナイーザの働きかけのおかげで、やがて町の教会で演奏できるようになる。そして、オードリーが葬式でピアノをひくと、偶然にも、グレイサーという名の白人が参列者席で聞いていたのである。彼女の才能を見抜いたグレイサーは、オードリーの家族を食事に招待して、彼女をニューヨークのアポロシアターでジャズピアニストとして雇うことを承諾させる。オードリーは高校卒業と同時にニューヨークへ旅立つ。またたくまにジャズピア二ストとして有名になり、ラジオに出演したり、レコードに名前がクレジットされたり大活躍する。そして、オードリーは地元のマウント・スターリングでも知らぬものはいない英雄になっていた。キャロラインはオードリーと幼馴染だったことから、ケンタッキー州で開催されるニューイヤーパーティーの出演依頼をオードリーにする役を任される。出演を快諾してくれたオードリーとの再会を目標にして、キャロラインは化粧品セールスの仕事に精をだす。貯金をつくり、こんどこそ一緒にニューヨークへの一歩踏み出そうと心に決める。

 

 しかし、年の瀬になって、アポロシアターのバンド仲間で、ベースを担当していたオーガストと同棲生活を始めていたオードリーは、高額の出演料が支払われるニューヨークのコンサートで演奏するように彼に強要されてしまい、キャロラインとの約束を破ってしまう。ジャズバンドのまとめ役だったオーガストと新人オードリーの婚約は、アポロシアターのなかで不和を引き起こし、ついに、2人はニューヨークを駆け落ち同然で出ていくことになる。2年ぶりにオードリーはオーガストとともに、故郷を訪れる。彼女は家族やキャロラインと再会して、結婚の報告をする。キャロラインは驚くほど美人になっていた。ただ2人のあいだの溝は簡単には埋まらないほど深くなっていた。

 

 アウターバンクスの海辺の町で演奏を続けながら細々と生計をたてていたオードリーとオーガストのもとにキャロラインが突然現れる。オードリーは2人の絆がすでに修復不可能なところまできていることに気づく。そして、オーガストへの愛も冷めてしまう。

 

 オードリーは、マウント・スターリングの実家に戻っていた。継父のバーバー、母親、幼い弟と一緒に暮らしはじめていたのだ。オードリーはこの田舎町から連れ出してくれそうな男を見つけてはつき合ってみるものの、うまくいかない。ピアノの仕事もアポロシアター時代のような活躍には恵まれない。そんなオードリーが最後に巡り合ったのは、妻殺しの罪を償い終えて出所したサニー・ボーイだった。キャロラインは驚き呆れながら、自分の祖母とオードリーの祖父がすでにこの世を去っていて、この光景を目にしなくてよかったと思う。町に出戻りしてきたなど似た境遇にあるサニー・ボーイとともに、かつてのキャロラインの家で、オードリーは、ピアノ教師としてひっそりと生きていく。

 

 オードリーとキャロラインの語りは、ときに互いを見つめ合ったり、ときに視線を逸らしたりしながら、並走していく。どちらも作品上欠かすことはできない機能を果たしている。

 

 例えば、キャロラインは、オードリーにとって重要な事実を発見して、読者に伝える。サニー・ボーイが刑務所から送ってくる手紙を読んだキャロラインは、オードリーの父親リンデルが生前にサニー・ボーイに宛てた手紙や音源を、オードリーに内緒で手に入れる。キャロラインを介したリンデルの肉声によって、音楽の才能を利用してなんとか安定した家庭生活を掴もうとした彼と、才能を認められてニューヨークに連れ出されたオードリーの抱く想いの温度差が明らかになる。もちろん、オードリーが父の声を耳にすれば、心変わりをするかもしれない。だが、タウンゼントはプロットに影響を及ぼす危険を冒さずに、語りを操ることによって、主人公の行動や思考を相対化する。栄光に向かって踏みだしていくオードリーの勇敢さは、キャロラインの受動性と対極にあるのではない。彼女の冒険心にもまた、状況に流された結果にすぎないという受動性が内包されている。その現実が炙り出されるのだ。

 

 並走する語りに仕込まれた機能は、三人称小説的な視点切り替えの効果にとどまらない。特にキャロラインの視点は、オードリーが意識的に語れない部分を感情的な言葉を駆使して読者に教える。そして、オードリーから一歩引いた位置に立つキャロラインのまなざしは、読者の関心を2人の関係性に引きつけていく。

 

 2人で映画館に行ったとき、1955年に白人に惨殺された黒人の少年エメット・ティルのニュースに感化されていたオードリーはキャロラインに、1階の白人専用の観客席に座るように言うシーンを見てみよう。ここではキャロラインが語り手である。

 

「となりに座らせようと、あたしの腕をつかんで、二階席でみなきゃいけないなんてどんな道理にもかなわないと言い立てた。『理不尽だよ』彼女は言った。『白人たちとまったくおんなじように映画を見られる眼をもっているのに。私たちは、おんなじ額のお金を払って中に入ってるのに』(中略)あたしは、白人たちが体験するのとはちがうものにお金を払っているんだ。しかも、そんなことに抵抗するいわれは、考えたって見あたらない。あたしはオードリーをふりきって、道理をわきまえているような顔で、二階席に上がった。たどり着いて、見下ろしてみるとすでにオードリーは映画館のまんなかの通路を通って席についていた。でも、おもしろいことに、白人はだれひとりあの子を気にもとめていなかった。あの子はキョロキョロして、ほとんど映画を見ていなかった。わざと音をたてて咳きこんでも、やっぱり、白人たちはみんな、ドリス・デイとジェームズ・キャグニーのキスシーンに釘付けで、あの子に見向きもしなかった。」(84)

 

この場面がキャロラインの視点から語られなければ、世間知らずで向こう見ずな少女オードリーの抵抗運動の思い出話でしかないだろう。しかし、自分も映画を忘れて、親友のあぶなっかしい姿を見つめているまなざしは、歴史小説のひとコマから離れて、2人の少女における、見る、見られるという関係性を前景化させる。そのうえで、キャロラインの羨望は、オードリーの勇ましさを滑稽な次元に引きずりおろしてしまっているのである。

 

 このようなエピソードの繰り返しによって、キャロラインの視線は、田舎で成功の契機の訪れを待つものという受動的な属性を引き受けるとともに、オードリーにもそれが当てはまる可能性をまざまざと見せつける。ニューヨークから出戻りしてきたオードリーが外に連れ出してくれる男を漁っているところをたまたま目撃してしまう場面も、キャロラインはこのように感じる。

 

「しばらくこの町で君と一緒にいようかな」彼があの子にそう言っているのが聞こえた。ほんとにこれ見よがしに言いながら、あの子の内股をつまんだ。すると、あの子は右に首を傾げてキスした。ギアみたいに首を回して、舌をあいつの口の奥まで突っ込んでいるみたいだった。ふつう、あたしらは物影に隠れてそういうことをする。映画のなかの白人の女の子みたいにこんなことをしている女の子をこの目で見たのは、オードリーが初めてだった」(333頁)

 

田舎町から都会へ連れ出してくれる男を探すのは、高校時代からキャロラインがしていたことと大差ない。これまで彼女はどんな男と付き合っても最後にはおいていかれてしまっていた。オードリーの男遊びは本質的にはキャロラインのそれと同じであることがわかる。キャロラインは、オードリーの淫らな行為を映画の一幕であるかのように語りつつも、白人の猿真似を恥ずかしげもなく披露している道化にすぎないことを暴露する。扇情的な肉感とは反対の「ギア」という機械仕掛けの比喩をもちいていることも手伝って、間の抜けた印象が添えられている。

 

 このような、いつも一歩前にいる幼馴染の姿に憧れる視線は、時代や歴史的背景から切り離して考えられる。中心で脚光を浴びる者と、隅でそれを羨む者という抽象的な関係が浮かび上がらせるとと同時に、周縁の者の語りが中央の権威を戯画化してしまう。彼女たちが1950年代を生きていることや、黒人であることを捨象すると、確固たる中心的なものが失われている現代的な構図が残るのだ。

 

 他方で、キャロラインに対しても同じことがいえる。成功の訪れを待つ者という抽象的な性格は、一歩前を歩くオードリーとの関係性があるからこそ与えられる。キャロラインは「ただ、何かが起こるのを待っている」(188頁)と言いながら、老いた祖母と幼い妹のために献身的に働く、教会で祈りも欠かさない毎日を送る。そして苦難の終わりを待ち望んでいる。だが、こんなに真面目なのに、誰も助けに来てくれないのである。しかしながら、なにか良いことを待ち続けているキャロラインの姿勢は、もう1人の語り手であるオードリーという幸運な成功者がいなければ、50年代の悲惨な黒人の境遇で嘆く少女の物語として美化されうるだろう。キャロラインを見返すオードリーの傲岸な成功者のまなざしに曝されることで、なにもせず成功の到来を待ちわびる少女という属性が強化されるのである。オードリーもキャロラインの行為を滑稽なものに貶めているのだ。

 

 このような相互運動によって、2人の関係はわかちがたく結ばれている。縁を切ろうと意識しても失敗してしまう。

 ニューヨークの駅に到着したとき、オードリーは過去との決別を心に誓う。

 

「私はキャロラインのことを考えていた。これと同じくらい素敵なことに続く道を見つけられる人をどうして拒絶してしまったんだろう。陽が傾き、私は走り出すためにスーツケースを持ち上げた。そこで浮かんできたのは、これを最後にして私の心から彼女を追い出さなきゃならないということだった。新しい友だちを作って、新しい人生をはじめよう。彼女との思い出なんて、なんの役にも立ちやしないんだ」(154頁)

 

オードリーは傲慢にも、自分と同じチャンスがキャロラインにも訪れたはずだと思い込んでいる。彼女にとって、キャロラインは機会を逃し続けている哀れで怠惰な少女なのだ。そして、田舎での生活を葬り去り、前だけを見ようとする。しかし、彼女はキャロラインから目を背けようとしても、失敗してしまう。地理的な距離によって、表面的には確執が生じているにもかかわらず、2人の関係は容易に断ち切ることができぬほど、深い部分で癒着している。オーガストとの破局後にオードリーが付き合うのは、キャロラインが初めて深い関係をもった男であるラルフだった。ついには、キャロラインの父親と一緒に暮らすようになる。そのほかにも、ニューヨークで買ったウィッグはキャロラインの美しい髪にそっくりであったといった点も見逃せない。彼女はキャロラインについて語らずとも、自らの生でキャロラインの人生を道化のようになぞってしまうのである。

 

 その理由として考えられるのは、結局のところ、オードリーもまた、自分の欲望や夢を具体的にはわかってないということだ。だから、ピアニストの道を極めようとして前進もせず。状況に流されているまま、アポロシアターの人気者から転落してしまうし、再び戻ることもできない。オードリーもまた、キャロライン抜きではただの栄枯盛衰の物語に収まってしまうだろうが、成功者でありながらも、敗者であるキャロラインの人生を漫然となぞってしまう滑稽さが描かれることで、典型的な物語の枠から逸脱をする。その反復が、相反する2人の少女の類似性を際立たせるのだ。

 

 物語の最後に、オードリーもまたキャロラインと同じく先が見えない霧のなかをさまよっていることが象徴的に描かれる。オードリーは田舎に帰ってきて、しばらく実家に滞在する。継父のバーバーが庭に作った巨大な穴は、一時的に雨で水がたまり、魚が放たれ、湖になった。しかし、川などの水源につながっているわけではないから、干上がってしまう。

 

「でも、真昼の暑さのせいで、池は緑色の物体に覆われてしまう。まるでおとぎ話から飛び出してきたみたいで、水の中から現れた魔女が呪文を唱えているかのようだった。400匹の魚たちはほぼ全滅しているんじゃないかと、言ったのは従兄弟のハーレルだ。あんな藻類の下じゃ息ができるはずがないさ。それでもなお、オードリーとバーバーさんはそこに座り、水中に垂らした釣り糸をじっと見つめている。一言もしゃべらずに、すごく集中していた。あたしたちが車のスピードを落として二度通り過ぎても気づきもしなかった」(332)

 

あてどもなく釣りをしている姿は、輝かしい未来に誘ってくれる人を探し求めているキャロラインとも重なる。オードリーがキャロラインの愚かしさを繰り返すという道化じみた展開は、成功と失敗の区別を融解させてしまう。なぜ愚かしい模倣をするのかといえば、おそらく、オードリーは潜在な次元においてキャロラインの人生にある何かを羨んでいるからだろう。

 一見すると、光と闇、都会と田舎、成功と失敗といった二項対立の構図に2人をあてはめてしまいそうになるのだが、実際には、どちらも先の見えない闇のなかで、救いを待っている似たもの同士である。サニー・ボーイが独房で悟り、オードリーに語った「最初、自分自身が醜いとわかる。そんで次に自分自身の美しさに気づく。でも、どっちの自分も、まったくもってそこにある現実なんだって悟るんだよ」(347)という言葉が示すように、この作品では二項対立の構造が崩壊している。その状況こそが、ありのままの現実などだと、タウンゼントは示唆しているのだ。表面的には正反対に見える2人の相互関係と語りの交差を通して、1950年代の世界へ、現代的な幸せや理想の形を見失い、もがきながら、なにかの訪れを待わびるというテーマが持ち込まれているのである。

 

 オードリーとキャロラインは、古典的な善悪の分身ではもちろんないし、同性愛的な欲望が顕著なわけでもない。繰り返しになるが、そういった固定化された関係に回収されることをこの小説は嫌う。

 

 例えばもしオードリーがキャロラインをニューヨークに連れ出すことができれば、言い換えれば、男性的な役割を引き受けることができれば、同性愛の構図が成立しただろう。しかし、オードリーは、その同性愛的な紐帯が実現しそうになる田舎でのニューイヤーコンサートのとき、男性であるオーガストと結ばれて、夫からの命令という口実でキャロラインとの約束を反故にしてしまう。このようなエピソードの積み重ねがあるため、オードリーとキャロラインを、典型的な同性愛の枠組みで捉えられないのだ。2人はもっと流動的な関係にある。

 

 1950年代の世界が再現されているので、オードリーは男性からの抑圧に屈したように見えるし、キャロラインが都会へ出られないのは有色人種が活躍できない差別的な社会が原因であるかのように描かれる。しかしながら、実際には、固定的な同性愛の関係が成立してしまうのを、時代の力を借りて回避しているのである。いわゆるマイノリティーという金型に流し込まれて理解されてしまうことを、彼女たちは拒む。現実的な生は、物語の型に収まるほど明確な輪郭をもっていない。もっと曖昧なものだからである。

 

 作品全体で注目すべきはやはり、歴史小説として、誰もが共有できる大きな夢の実現や挫折を描くことができるにもかかわらず、タウンゼントが注意深くそれを避けている点にある。一応、ジャズピアニストやブロードウェイの女優など典型的な社会的な成功、あるいは公民権運動といった政治活動へのコミットメントといった例示があるものの、オードリーとキャロラインは自分自身の夢のかたちを決定的に見失っている。だからこそ、作品に深みとリアルさが生まれているのだ。

 

 キャロラインは、将来の成功に具体的なかたちを見い出していない。彼女はなにを待っているのかすらわかっていないのだ。他方、オードリーは、模範的な夢が与えられる。しかし、その夢に対する違和感は、ジャズピアニストや、オーガストの妻といった華々しい生活が早々に破綻させてしまうことによって、彼女がそれらを心から望んでいないという可能性が露わになる。

 

 理想のかたちがわからないから、2人は互いの姿にそれを見出そうとする。その試みが、語り手の入れ替わりで浮き彫りになっていく。キャロラインは、オードリーの才能と成功を羨む。オードリーは自分を唯一無二の存在として受け入れてくる人物との穏やかで幸せな家庭生活を欲する。互いのなかにその感触をもちながらも、オードリーは理想的な天才ピアニストとして振舞わないし、キャロラインは家族を足かせのようにして生きるから、お互いに理想のモデルとはなりえない。現実の人間はモデルのように生きられないからである。

 

 物語の冒頭で、2人はどちらも父親を亡くして、家を失う。そのときから、彼女たちはずっとさまよっている。当て所なく探し求める行為のなかで、自らの居場所を作り上げようと必死に生きて、そして待っているのである。