戸山翻訳農場

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Busy Monsters by William Giraldi               樋口武志

 『ビジー・モンスター』は2011年の夏に出版されたウィリアム・ジラルディの長編デビュー作である。ジラルディはボストン大学で批評理論を教え、New York Times Book ReviewThe Believerなどに短編やエッセイを寄稿しつつ、文芸サイトAGNIの編集長を務める37歳。彼のサイトではいくつかの作品を読むこともできる。

 

 実はこの『ビジー・モンスター』、お世辞にもアメリカで注目を集めているとは言えない。賞を取ることも書評で絶賛されることもなく、刊行から半年以上が過ぎている…Twitterアカウントもあるにはあるが(@Busy_Monsters)、悲しいかな、201111月から更新がない。しかし、僕はこの本を非常に面白く読んだ。なぜか。理由を説明する前に簡単なあらすじ紹介をしたい。

 

「現代のピカレスク小説」と謳われるこの作品は、ちょっと変わった主人公の冒険譚。道中これまた変わった出来事に巻き込まれながらも大団円を迎える物語。作者はホメロス『オデュッセイア』やセルバンテス『ドン・キホーテ』のような作品をイメージしたと言っている。

 

 主人公はそこそこ人気の伝記作家チャールズ・ホーマー(Charles Homar)。もうすぐジリアン(Gillian)と結婚する予定だが、ジリアンの元彼がストーカーになり二人を脅してくる。身の危険を感じたホーマーは、元彼を殺しに行くことを決意する —— こうして物語が始まる。しかしホーマーの冒険は「元彼の殺害」ではない。殺害の話はすぐにあっけない幕切れを迎える。問題はその後…

 

 家に帰るとジリアンがいない! ジリアンは幻の生物ダイオウイカのクラーケンを探すため、全てを捨てて海に出てしまっていた。ホーマーの冒険は、結婚式目前に海へ飛び出した恋人を追い求める旅である。

 

 それからの旅はいわゆる荒唐無稽なもの。出航目前のジリアンが乗る船を見つけるも、同乗する船長に嫉妬して銃を乱射し逮捕、数ヶ月で釈放されるも自暴自棄になり、知り合いに連れられ未確認動物ビッグ・フットを探しに行ったり、ボディービルダーの家で乱交に誘われたり、父親が死んだりする一方で、ジリアンは世界で初めてダイオウイカの生け捕りに成功し、増々落ち込んでいくホーマー…

 

 内容もさることながら、この作品最大の特徴はその形式にある。各章はホーマーが雑誌に連載している伝記という設定になっている。各章の登場人物はたいてい、前の章までの伝記を読んでいて、ホーマーは「おれのことは書くなよ」とか「女性キャラクターが少ないんじゃない」なんて言われたりする。結末部でも登場人物たちが、「こんなフィナーレ、盛り上がらないんじゃ…」などと言ってしまう。『ビジー・モンスター』はメタフィクションであり、何が本当で何が嘘かわからない、そんな仕掛けが施されている。

 

 バカバカしいエピソードと、複雑な形式、それに加えて作家や哲学者からの引用を多分に含んだこじつけをする独特の言い回し。それが本書の魅力だと言える。しかし、なにより僕の興味を魅いたのは、日本の現代文学との同時代性。ジラルディを日本の作家に例えるなら、舞城王太郎と阿部和重を足して二で割ったような人。アメリカでは売れなくても、日本には一定の読者がいるのではないか、そんな風に感じたのである。

 

 例えば、冒頭の文章はこのように始まる。

 

 愛に打ちのめされセックスのしすぎで狂ったと人は言うかもしれないが、僕は車を南にぶっとばしある男を殺しに行くと決めた。

 

 舞城の『好き好き大好き超愛してる』の冒頭、「愛は祈りだ、僕は祈る」に似てなくもないような。車を飛ばしていくあたり、舞城のデビュー作『煙か土か食い物か』に通じるところがある。

 

 さらに、海に出たジリアンから届いた手紙を受け取ったホーマーは、愛を以下のように定義している。

 

600文字のアルファベットが書かれた紙を渡されて、全ての文字が別々の人間や利口なチンパンジーによって書かれていたとしても、僕は30秒かそこらでジリアンがどの文字を書いたのか見分けることができるだろう。

 これが、いいですか皆さん、愛の定義です。いつか試してみてください。

 

 理屈じゃない、わかるもんはわかる、ということだろう。

 一方、舞城も『阿修羅ガール』の中で、同じようなことを言っている。

 

「でも多分きっと、人が人を好きになるときには、相手のこことかそことかこういうところとかああいうところとかそんな感じとかそういうふうなとことかが好きになるんじゃなくて、相手の中の真ん中の芯の、何かその人の持ってる核みたいなところを無条件で好きになるんだろうと思う。」

 

 ジラルディと舞城の小説の登場人物は思考や話の仕方が似通っている。そして、形式については、阿部和重『インディビジュアル・プロジェクション』とかなりの部分が一致する。

 

 まずはどちらもメタフィクションであること。『インディビジュアル・プロジェクション』は、主人公の日記として話が進むが、最後それはマサキという人物に提出したレポートだったと明かされる。つまりどちらの作品も、読者が読んでいる者は主人公の創作物である。

 

 次に、両方の作品において主人公が多重人格者であるかのように読めること。両作とも、三人の別人格を抱えている。『ビジー・モンスター』ではGroot, Romp, Richieという男性、『インディビジュアル・プロジェクション』は、カヤマ、イノウエ、マサキという男性。RompやRihieはいつの間にか現れて、いつの間にか消えている、と作中でも主人公は話している。

 

 さらに、33歳という共通点もある。ホーマーは、記述を繋ぎ合わせると執筆時、33歳であることがわかる。『インディビジュアル・プロジェクション』の主人公オヌマは若いが、フリオ・イグレシアスの「33歳」の歌詞について考え、作品の最後には同歌手の「さすらい」の歌詞が紹介される。歌詞は以下の通り。

「わたしは自由を夢みる者/海のない帆船の船長/ある場所を探し求めて生きている者/年齢のないひとつの時代のドン・キホーテ/わたしは本物の人たちが好き/ボヘミアン/詩人/宿無し/みんなわたし」

 

 そしてとっておきは、村上春樹との符合。『海辺のカフカ』の田村カフカ少年は名前を自分で付けている。カフカ少年も解離性人格障害の疑いがある。『ビジー・モンスター』のチャールズ・ホーマーも実はペンネーム。本名は明かされていない。ホーマーのつづりはHomar、そして『オデュッセイア』のホメロスはHomer。1字違いだが、ホーマーという名前は、カフカ少年同様、ホメロスから取られたと考えても差し支えないだろう。また、女性がハンター、男性が物書きという設定は『1Q84』と重なり、その『1Q84』は、必殺仕事人よろしく大衆が見るテレビのような要素と月が二つある世界のような神話の要素が交差する作品である。Homarはホメロスだと言ったが、それだけではない。アメリカにはもう一人のHomerがいる。『シンプソンズ』のホーマー・シンプソン(Homer Shimpson)だ。『ビジー・モンスター』は『オデュッセイア』×『シンプソンズ』なのである。

 

 阿部や村上の作品の方が完成度は高い気がするが、『ビジー・モンスター』のような日本文学に近い感性をもつ作品がアメリカで生まれつつあることが何より嬉しい! 人気がない人気がないと言ってきたが、ブログなどで2011年のNo.1に挙げる人がいたり、あのビート・ジェネレーションの聖地「シティ・ライツ・ブックストア」では店員お薦めで陳列されていた! との情報もあり、一部で話題になってはいる。

それでも、ベストセラーにならないということは、文芸における「クールジャパン」の道のりはまだまだ遠いのかもしれない…