戸山翻訳農場

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2012年

3月

12日

Imperial Bedrooms by Bret Easton Ellis           菅野楽章

見せかけの帝国―ブレット・イーストン・エリス『インペリアル・ベッドルームズ』


 ロサンゼルスの青い空は美しい。眩い太陽、聳えるヤシの木、心が踊る景色だ。だけど、ただ明るいだけだったら、この街はそれほど魅力的ではないかもしれない。華やかなもの陰にあるもの、それがこの街の魅力を奥深くしているのかもしれない。夕暮れの太陽には何とも言えない哀愁が感じられる。『サンセット大通り』の忘れ去られた大女優、『ホテル・カリフォルニア』の迷宮のようなホテル…。そういったものがそこには映し出されている。

 

 1985年に発表されたブレット・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』も、やはりこの街の陰を描いていた。裕福な家庭に育ち、パーティーに明け暮れる若者たち、セックス、ドラッグ、表面的なコミュニケーション、人を本当に愛することができない。キラキラとした外面に隠れた空虚な内面が、感情を排した淡々とした文体で綴られていた。当時エリスは弱冠21歳。この処女作は評判を呼び、ジェイ・マキナニーらとともに、若い作家として注目を浴びるようになった。

 

 そして25年たった2010年、『レス・ザン・ゼロ』の続編となるインペリアル・ベッドルームズが発表された。舞台はやはりロサンゼルス。前作はエルヴィス・コステロのシングルからタイトルがとられていたが、今作もコステロのアルバムからとられている。

 

 が、これが素直な続編とはなっていない。語り手である主人公のクレイは、前作のクレイと同一ではない。『レス・ザン・ゼロ』(タイトルは言及されないが)は知り合いの書いたもので、実際の自分とは違っている、と今作のクレイは言う。つまり、登場人物たちは、自分たちを題材にした小説がかつて出版されたことも、その後映画版が公開されたことも知っている。ドン・キホーテ的なメタフィクションとなっているのである。

 

 冒頭部分はしばらく前作にまつわる話がつづく。小説に関しては一定の評価をしているクレイだが、映画版への評価は厳しい(「(小説は)直截的でその点では正直だったのだが、それに対して映画は単なる美しい嘘だった」)。実際、『レス・ザン・ゼロ』の映画版は、原作とはかなり違っていて、害のない青春映画になっていた(これはこれで面白いとは思うが)。特に大きく変えられたのがラストシーンで、クレイの親友で男娼のジュリアンが死ぬことになる。今作のクレイに言わせれば、「彼はすべての罪の罰を受けなければならなかった。それが映画の必要としたものだった」というわけだ。

 

 「本当のジュリアン・ウェルズはチェリーレッドのコンバーチブルで死んだのではなかった(中略)本当のジュリアン・ウェルズはそれから20年以上あとに殺された」。これが『インペリアル・ベッドルームズ』で明かされる事実である。冒頭部分の終わりにこのことが語られ、ではどうしてジュリアンは殺されたのか、ということが物語を読み進めていくうちに明らかになってくる。

 

 しかし、ここでのクレイの反応には唖然とする。ジュリアンは、頭がグシャグシャになるまで殴られ、159回も切りつけられていた。そのことを新聞で読みながら、クレイはこんなことを考えているのである。

 

 彼ら(=死体を発見した学生たち)は死体を見たときゴミ集積箱のそばに横たわる「物」を―つまりワタシは「ロサンゼルズ・タイムズ」のカリフォルニア欄の一面に載ったジュリアン・ウェルズ殺人事件に関する第一報を引用している―「旗」だと思った。ワタシはその語に出くわすと一息つかないわけにはいかずもう一度最初から記事を読みはじめた。ジュリアンを発見した学生たちがそう考えたのはジュリアンが白いトム・フォードのスーツを着ていたからで(それは彼のものだったが連れ去られた夜に着ていたものではなかった)彼らのとっさの反応が論理的ともいえそうだったのはジャケットとズボンには赤い縞が入っていたからだ。(ジュリアンは殺される前に脱がされてそれから着直させられたのだ。)しかし彼らがそれを「旗」だと思ったとしてワタシがすぐに抱いた疑問は―それでは青はどこにあったのか? その死体が旗に似ていたというのなら―ワタシは考えつづけた―それでは青はどこにあったのか? それからふと気付いた―頭だ。学生たちがそれを旗だと思ったのはジュリアンが大量の血を失っていたためグシャグシャにされた顔はほとんど黒に近いほどの青色だったからなのだ。

 しかしそれならばもっと早く気付くべきだった、ワタシは自分なりのやり方で、ジュリアンをそこにやったのだし、彼に起こったことは前に別の―まったく違う―映画で見ていたのだから。

 

 25年たってクレイは成長しただろうか、本当の彼はまともな人間なのだろうか、という考えは、この時点で完全に打ち砕かれる。感情を表現できないどころか、『アメリカン・サイコ』の主人公を思わせる冷酷さである。

 

 今作のクレイは43歳の脚本家。キャスティングセッションのため、ニューヨークからロサンゼルスへ戻ってきた、というところから物語は動きだす。『レス・ザン・ゼロ』と同じクリスマスシーズンで、クレイは前作にも登場した旧友たちと会う。売春事業をはじめたジュリアン、かつての彼女ブレア、その夫となったトレント、闇社会とつながりのあるリップ。だが、今作の中心となるのは、レイン・ターナーという若い女優である。クレイは映画の役をあげると約束し、彼女を自分のものにしようとする。言うことを聞かなければ、役をあげないと言って無理に従わせる。

 

 このレインという女優はいわゆるファムファタールである。エピグラフにも引用されているレイモンド・チャンドラーなど、ハードボイルド小説やフィルムノワールの香りが感じられる。ジュリアンやリップとの関係が徐々に明らかになるにつれ、クレイは泥沼にはまり込んでいく。

 

 しかし、完全な破滅に至ることはない。クレイはこうした関係を何度も経験しているようである。そして、そのことは周囲にも知られている。リップは言う。「相手はお前を好きじゃないし好きになりそうもない(中略)だけど相手はお前から欲しいものがあるから瞬間的にはコントロールできる」。トレントは言う。「約束をして、寝て、物を買ってやって、そうやってとりあえずは自分のものにできて、本当に約束したものをあげられないとわかると…」。ジュリアンは言う。「お前は本当のところだれかに何かしてやる気なんてない」。

 

 クレイにとってはすべてがシナリオなのだ。好きなように話を作り、その通りに事を進める。うまくいかなくなると、メチャクチャにして放りだす。そうすることしかできないのである。ずっとクレイのことを想ってきたブレアとの、噛み合わないやり取りは、痛々しく哀しい。物語の最後、ブレアはクレイに優しく歩み寄ろうとするが、彼の頭は混乱してしまう。何かを言いたいが、何も言うことができない。そして、こんなことを考えている。

 

 ワタシは一度もだれかを好きになったことがないし人が怖い。

 

 

追記 ブレット・イーストン・エリスはTwitter@BretEastonEllis)によく書き込んでいる。サリンジャーの死去を受けて「今夜はパーティーだ!!!」と言ってみたり、『glee』をしつこく批判してみたり、物議を醸すことも多く、面白い(funnyinteresting)。また、頻繁に使われるのが、「Empire(帝国)」「Post-Empire(帝国後)」という言葉である。ジュリア・ロバーツ、クロワッサン、ニューヨークはEmpire、レディー・ガガ、ココナッツジュース、ロサンゼルスはPost-Empire、といった具合に、さまざまなことをこの言葉で語っている。詳しくは以下の記事を参考に、とエリスは言っている。

“Notes on Charlie Sheen and the End of Empire”)