戸山翻訳農場

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2012年

3月

31日

振り子                        訳:増子久美

  「八十一丁目――降りる方を先にお通しください」青い制服の羊飼いが叫んだ。

 市民の羊の群れがわれ先にと這って出て、また別の群れがわれ先にと這って入った。カーン、カーン! マンハッタン高架鉄道の家畜車両はガタゴトと走り去った。ジョン・パーキンズは解放された群れといっしょにふらふらと階段を降りた。

 ジョンはゆっくりとアパートに向かった。というのも、彼の日々の生活の辞書には、「もしかすると」という言葉はないからだった。結婚して二年目のアパート住まいの男になど、なんのサプライズも待っていないのだ。ジョン・パーキンズは歩きながら、暗い、打ちひしがれた、シニカルな気分で、単調な一日がどう締めくくられるか、わかりきっていることを予想していた。

 玄関で出迎えるケイティがするキスにはコールドクリームとバタースコッチの味がするだろう。自分はコートを脱ぎ、石を敷いたような長椅子に座り、夕刊をひろげて、ひどいライノタイプ印刷のロシア人と日本人の殺し合いの記事を読むだろう。夕食にはポットローストと、革製品に使っていただいてもひびや傷はできませんとの保証付きのドレッシングであえたサラダと、じっくり煮こんだルバーブと、化学物質無添加を謳うラベルの表示に赤面しているストロベリー風味のマーマレードの瓶が並んでいるだろう。夕食が終わると、ケイティは製作中のクレージーキルトに新しく縫い合わせた布切れを見せてくるだろうが、それは氷屋が自分のネクタイの端をわざわざ彼女のために切ってくれたものだろう。七時半になると、ふたりで家具に新聞紙をかぶせることになるが、それは天井から降ってくる漆喰の破片が散らばらないようにするためで、上の階で太った男がフィジカルカルチャーの健康体操(←注1 健康に問題を抱えるひとが増えたことから、一八九九年、健康雑誌「フィジカル・カルチャー」が創刊され、誌名がフィットネス体操の代名詞となった。)をどすんばたんと始めるからだ。八時ちょうどになると、廊下の向かいの部屋のヒッキー・アンド・ムーニーという(まるで売れてない)寄席芸人のコンビが穏やかな精神錯乱を起こして椅子をひっくり返しはじめるが、それは興業主のハマースタイン(←注2 十九世紀末から二十世紀初めにかけて多くの劇場経営に携わったオスカー・ハマースタイン)が週五百ドルで契約を結ぼうと追いかけてくるという妄想に取り憑かれてのことだ。そうこうするうち、通気口の向かいの窓辺では紳士がフルートを取りだすだろう。大通りでは夜ごとのガス灯がするするといきおいよく燃え始めるだろう。レストランの食器用エレベーターからはお盆がつぎつぎと滑り出てくるはずだ。そしてアパートの管理人はまたしてもザノウイスキー夫人の五人の子どもを鴨緑江(おうりょくこう)の向こうに追いやろうとし、シャンパン色の靴を履いてスカイテリアを連れたレディは階段をちょんちょんと降りてくると、木曜日にちなんだ自分の名前を呼び鈴と郵便受けに貼りつける――こうしてフロッグモア・アパートのいつもの夜は流れていく。

 ジョン・パーキンズにはこのような展開が予測できた。さらに、八時十五分には自分を奮い立たせて帽子に手をかけるだろうことも、妻が不満げな声で言うであろう台詞も――

 「あれ、どこにいらっしゃるつもり? 教えてちょうだいな、ジョン・パーキンズ」

 「ちょっとマックロスキーのところへ顔を出そうと思ってな」と自分は答えるだろう、「仲間とビリヤードを二、三ゲームやってくるさ」と。

 最近ではこんなようなことがジョン・パーキンズの習慣になっていたのだった。十時か十一時に帰宅する。ケイティは寝ていることもある。起きて待っていることもあるが、そういうときは怒りの坩堝(るつぼ)のなかで結婚生活という練鋼の鎖から少しでも多く金メッキを溶かし出そうとしているのだ。こういうことについては、いずれ、愛の神たるキューピッドに、フロッグモア・アパートに住む彼の矢の犠牲者たちと審判の場に立つとき、弁明してもらわねばならないだろう。

 その晩、ジョン・パーキンズがそんな日常の大変動に遭遇したのは玄関に着いたときだった。ケイティはいないし、愛と砂糖がいっぱいのキスもないのだ。三つの部屋は不吉なほど乱れている。彼女のものがそこらじゅうに散らばっている。靴は床の真ん中に脱ぎ捨てられ、ヘアアイロンと髪留めとキモノとおしろいの箱がドレッサーと椅子の上にごちゃごちゃにのっかっている――まったくケイティらしくない。気持ちが沈んだのは櫛が目に入ったときだ、歯に彼女の茶色い巻き毛がもわっと絡みついていた。ただごとではない緊急の不安に襲われたにちがいない、というのも、抜けた髪はいつもマントルピースの上の小さな青い花瓶のなかにていねいにしまっていたからだ、あこがれの女性らしい「かもじ」をいつかつくるために。

 目立つようにガス灯の口に紐でつるされていたのは、折りたたまれた紙だった。ジョンはそれをひっつかんだ。妻からの走り書きのメモだった、

 

 愛するジョンへ

 たったいま電報がきて、お母さんの具合がとっても悪いらしい。四時半の汽車に乗ります。サム兄さんが駅まで迎えにきてくれることになってます。冷蔵庫に冷やした羊肉が入ってます。また扁桃炎がぶり返したんじゃないといいけど。牛乳屋に五十セント払ってください。お母さん、去年の春はひどいのにかかったから。業者にガスメーターについて手紙を書くのを忘れないで。洗った靴下は一番上の引き出しです。あした手紙書きます。

とりいそぎ         

 ケイティ

 

 結婚して二年、ふたりは一度たりとも夜を別々に過ごしたことはなかった。ジョンは呆然としてメモを何度も読み返した。けっして変わることのなかった日常に亀裂が入ったのだ、途方に暮れた。

 椅子の背もたれには、淋しげな抜け殻のようにだらりと、彼女がいつも食事のときに巻く赤地に黒い水玉模様の膝掛けがかかっていた。普段着が、慌てたのだろう、あちこちに投げ捨てられていた。好物のバタースコッチの入った小さな紙袋は封が開いたままだった。新聞が床にひろがっていて、四角にぽっかりとあいた穴は列車の時刻表が切り抜かれた跡だった。部屋のなかのありとあらゆるものが、喪失を、大切なものが消えたことを、魂と命が失踪してしまったことを告げていた。亡骸(なきがら)に囲まれて立ちつくしていると、心に奇妙な侘びしさを覚えた。

 部屋をできるだけきれいにしようと片づけはじめた。彼女の衣類に触れると、恐怖にも似た戦慄が体を駈け抜けた。ケイティのいない状態など考えたこともなかったのだ。彼女は彼の生活にすっかり溶けこんでいて、空気のようなものになっていた――必要だがほとんど気に留めることのないものに。それがいま、なんの前ぶれもなく、消えた、いなくなった、もとから存在していなかったかのように、完全に見えなくなった。もちろん、ほんの二、三日、長くても一、二週間のことだろうが、しかし、死の手が平穏無事の家庭に指を伸ばしてきたように思えた。

 冷蔵庫から冷えた羊の肉を引っ張り出すと、コーヒーを淹れ、ひとりきりの食卓につき、ストロベリー風味マーマレードの化学物質無添加を主張するあつかましいラベルと向き合った。幸福が消え去ってしまったいま、ポットローストと革磨きドレッシングのサラダの亡霊がきらきらと光るように思えた。我が家は崩壊した。扁桃炎を患った義理の母が家庭の守護神を天空の彼方へ追いやってしまったのだ。ジョンは、孤独な食事を済ますと、通りに面した窓辺に座った。

 タバコを吸う気にはなれなかった。外では、浮かれ騒ぎの踊りにおいでとばかりに街が吼(ほ)えたてていた。夜は彼次第だった。なにも訊かれずに出て行って、陽気な独身の男たちと同じように自由に祝祭の弦をかき鳴らすこともできた。大酒を飲んでほっつき歩き、夜明けまで羽目を外すこともできた。歓楽の残滓(ざんし)が入ったグラスを持ちかえっても、怒りに燃えるケイティが待ち構えているということもない。夜明けの女神オーロラに電球の光がかすんでしまうまで、マックロスキーで飲み仲間とビリヤードに興じることもできる。これまでは結婚という紐が、フロッグモア・アパートにうんざりしてくるといつも、彼を縛りつけていたものだが、それがゆるんだ。ケイティがいないのだから。

ジョン・パーキンズは、自分の感情と向き合うことに慣れていなかった。だが、ケイティのいない十×十二フィート(およそ七畳)の居間に腰を下ろしているうちに、この落ち着かなさのポイントをはっきりつかまえた。自分の幸せにはケイティが不可欠なのだと気がついた。彼女への思いが、退屈な日常の連続でこれまでは意識の下に沈んでしまっていたが、彼女の姿が消えたことでいっきに浮上してきていた。ことわざや説教や寓話でさんざん言われてきたことではなかったか? 美しい声の鳥が飛び去ってはじめてその歌声のすばらしさに気づくのだ、と――あるいは、もっと華麗で真実をついた金言にもそんなものはなかったか?

 「俺はバカのなかの大バカだ」ジョン・パーキンズは考えていた。「ケイティになんてことをしてきたことか。毎晩ビリヤードに出かけては野郎どもと飲んだくれ、いっしょに家にいてやろうともしなかったのだから。かわいそうにも彼女はここになんの楽しみもなくひとり取り残され、そして俺はあんなふうに振る舞っていた! ジョン・パーキンズ、おまえは最低の男だ。これからは埋め合わせをするんだ。外に連れ出して、おもしろいものをいっぱい見せてやろう。マックロスキーの野郎どもとはこれっきり縁を切るんだ」

 そう、外では街が、嘲りの神モモスといっしょに踊ろうとパーキンズにむかって吼えていた。マックロスキーでは、野郎どもが夜ごとのゲームに備えてのらくらと球を突いていた。しかし、歓楽の道も、コツンと響くキューの音も、喪失をかかえた男パーキンズの悔悟に満ちた魂を誘惑することはできなかった。自分のものだったもの、いいかげんに保持して半ば軽蔑していたものが奪われたいま、彼はそれを取り戻したかった。はるか昔の、アダムとかいう男にまで、智天使(ケルビム)よって楽園から追放された男のところまで、悔悟するパーキンズは家系をたどってさかのぼることさえできた。

 彼の右側に椅子があった。その背にはケイティの青いブラウスがかかっていた。それには彼女の体のかたちがいくらか残っていた。両袖のなかほどには細かなくっきりとした皺があったが、それは彼にくつろぎと喜びを与えようと働いていた彼女の腕がつくりだしたものだ。ほのかだが、胸を突くブルーベルの花の香りがそこから漂ってくる。ジョンはそれを手に取り、なにひとつ反応しないグレナディンのブラウスをしばらくまじまじとながめた。ケイティが反応しないということは一度だってなかった。涙が――そう、涙が――ジョン・パーキンズの目に浮かんだ。彼女が戻ったら、すべてを変えよう。いままでないがしろにしてきたことの埋め合わせをしよう。彼女のいない人生など、なんの意味がある?

 ドアが開いた。ケイティが小さな手提げ鞄をさげて入ってきた。ジョンは呆けた顔で彼女を見つめた。

 「ああ、帰ってこられてよかった」ケイティが言った。「お母さんはたいしたことなかったの。サム兄さんが駅で待っててくれたんだけど、ちょっとした発作を起こしただけで、電報を打ったあとすぐよくなったって言うのよ。だから次の列車で戻ってきた。いまはとにかくコーヒーが飲みたくてたまらない」

 誰の耳に聞こえなかったが、歯車がカチリとはまってガタガタという音をだし、フロッグモア・アパートの三階正面の機械装置がうなりをあげて秩序を取り戻した。ベルトがまわり、バネが弾み、ギアが噛み合い、車輪が元の軌道を回りはじめた。

 ジョン・パーキンズは時計を見た。八時十五分。帽子を取ると、玄関に向かった。

 「あれ、どこにいらっしゃるつもり? 教えてちょうだいな、ジョン・パーキンズ」ケイティが不満そうに訊いた。

 「ちょっとマックロスキーのところへ顔を出そうと思ってな」とジョンは答えた、「仲間とビリヤードを二、三ゲームやってくるさ」