戸山翻訳農場

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O.ヘンリーとその時代 ー 時代背景      岡野桂、桑垣孝平、樋口武志

 ノース・カロライナ出身、1862年生まれのO・ヘンリーは二十世紀初めの十年代、特にその後半に活躍し、三百以上の短編を残した。O・ヘンリーはペンネーム。写真を撮られることや取材を受けることを嫌っていたが、いくつかの写真は残されており、写真家のウィリアム・ヴァンダー・ウェイドによって1909年に撮られた写真は、現在でも広く使用されている(右の写真参照)。取材も受け入れる事はあったが、小説の登場人物になりきって質問をはぐらかしたり、作家になる前の仕事に関してはほとんど口を開かなかった。

 作家Guy Davenport [1]Penguin ClassicsのO・ヘンリー作品集に紹介文を寄せている。O・ヘンリーの経歴や作品の特長、そして時代背景の理解のため、要約、再構成しここに掲載する。

 【作家以前】

 O・ヘンリー(本名:ウィリアム・シドニー・ポーター)は銀行に勤めていた頃に横領の罪で告訴される。1896年、保釈中に逃亡し、妻と娘を残して、ニューオーリンズを経て中央アメリカのホンジュラスへと行き着く。

 

 そこで貧しい生活を送り[2]1897年には妻の危篤を知りテキサスの自宅に戻るも、同年725日妻は息を引き取った。翌年27日、裁判を受けることとなる[3]。事件当日にヘンリーは出社しておらず冤罪の可能性が高いが、彼は誰かをかばっていたのかもしれない。後に、横領や冤罪、他人の罪を被る人にまつわる物語を多く描いている。

 

【作家 O・ヘンリーの誕生】

 五年の懲役を受け、1898425日オハイオ州立刑務所へと送られる。刑内の病院で薬剤師として働き、模範囚として刑期を短縮され、1901年には釈放された。刑務所内で執筆を始めた彼は、ミドルネームをSidneyからSydney (オーストラリアの都市名) に変更する。さらにペンネームのO.Henry Ohio penitentiary (オハイオ州立刑務所) から取られたものだとも言われている[4]

 

 名前の由来に関しては諸説あり、「”O”は一番簡単に書ける文字だから」とか、「オリヴィエのO」だとする説もある。刑務所を出たO・ヘンリーはピッツバーグに少し滞在した後、ニューヨークへと移った。ニューヨークを舞台にした作品を多く創作し、1910年に死ぬまで (この時のペンネームはウィル・S・パーカー) 雑誌や新聞に短編を発表し、アメリカの人気作家へと上り詰めてゆく。


A. Stieglitz "The Frat Iron Building"
A. Stieglitz "The Frat Iron Building"

【時代背景】

 O・ヘンリーが死去した1910[5]までの、20世紀最初の十年は近代化が飛躍的に進んだ時期であった。

 

 O・ヘンリー、エズラ・パウンド[6]などが活躍する一方で、アルフレッド・スティーグリッツの291ギャラリー[7]が登場し世間を賑わせていた。O・ヘンリーにとっての近代化はたった三年落ちのNYスーツをヒューストンで買えることであったり、ジョン・フィリップ・スーザ[8]をホンジュラスにいながら蓄音機で聞くことを意味していた。

"The Robie House"
"The Robie House"

 彼にとっての近代建築は1909年に建てられたライト・ロビー・ハウス[9]ではなく、フラットアイアンビルディング[10]であった。また、アルベルト・サントス・デュモン[11]への言及はあれど、ライト兄弟[12]の話をすることがなかった。彼は、ラドヤード・キップリング[13]のように、西洋人でありながらアメリカでものを書く新しいタイプの作家のように見えた。

 

 チェーザレ・パヴェーゼ[14]はO・ヘンリーの革新的で口語を交え、平凡な都会の生活の中にある不思議で美しい出来事を描く作品を高く評価していた。また、ロシアのコンストラクティビスト[15]たちにとって、捻りが利いて簡潔かつ風刺のできるO・ヘンリーは、ラグタイム[16]や自動車、プラグマティズム同様、アメリカの活気の原動力と見なされていた。

 

 彼が尊敬していたワシントン・アーヴィングはハープシコード、エドガー・アラン・ポーはチェロを好んだが、O・ヘンリーはラグタイムの王スコット・ジョプリンのような文章を書いた。

 


[1] ガイ・ダヴェンポート。アメリカの作家、翻訳家(19272005)。文学上の交遊は広く、エズラ・パウンド、ヒュー・ケナー、サミュエル・ベケット、アレン・ギンズバーグ等。ギリシャ語の翻訳を行っている。

[2] 現在広く流通している「バナナリパブリック」という言葉の生みの親はO・ヘンリーである。彼はホンジュラス滞在中に、” Cabbages and Kings” (「キャベツと王様」) という短編集を書き、プランテーションが盛んだったホンジュラスを「バナナリパブリック」と形容した。

[3] 同日、フランスの文豪エミール・ゾラも法廷に立っていた。ドレフュス事件の裁判である。この事件とO・ヘンリーにはいくつか共通点がある。一つ目は裁判が同日であったこと。二つ目はドレフュスを擁護し有罪になったゾラも逃亡したこと(ゾラはロンドンへ逃亡)。三つ目は、ドレフュスとヘンリーは冤罪らしいことである。

[4] O・ヘンリーは ”The Man Higher UP” (「腕くらべ」)という作品の中で、登場人物を、自らのペンネームと同じような方法で名付けている。詐欺師Alfred E. Ricks は捕まるが、A. L. Fredericks として戻ってくる。

[5] 同年に、トルストイ、マーク・トウェインも他界している。

[6] 1885-1972。アメリカ出身。詩におけるモダニズム運動の中心的人物。

[7] 1864-1946。アメリカの写真家。近代写真の父と呼ばれる。ギャラリーは1905年から1917年にかけ彼がニューヨーク5番街291番地に開設したもので、1908年に「291ギャラリー」改称した。ロダンやピカソなど、アメリカだけでなくヨーロッパの前衛芸術を展示していた。

[8] 1854-1932。アメリカの作曲家。マーチ王と呼ばれる。代表曲は「星条旗よ永遠なれ」。

[9] 「近代建築の三大巨匠」と呼ばれるアメリカの建築家フランク・ロイド・ライト (1867-1959) が1908年から1910年にかけて建築した。この建物の建築様式はプレーリースタイルと呼ばれる。

[10] ニューヨーク5番街にある高層ビル。ニューヨークで最も高い建物のひとつ。三角形の形が有名である。

[11] 1873-1932。ブラジル出身で、母国では飛行機王とも呼ばれ、彼の名前を冠した空港もある。1906年にフランスで飛行実験に成功。

[12] アメリカ出身。デュモンの三年前、1903年に有人動力飛行に成功した。

[13] 1865-1936。O・ヘンリーと同時代のイギリスの小説家。1907年にはノーベル文学賞をイギリス人として初めて受賞。1892-96の間はアメリカに拠点を置いていた。『ジャングル・ブック』が代表作として知られる。

[14] 1908-1950。イタリアの詩人、小説家。

[15] ロシア構成主義。1910年代半ばに興ったソビエトの芸術運動。その抽象性、象徴性が特徴。

[16] 1897年から1918年頃にかけてアメリカで流行した音楽形態。黒人音楽をもとにして生まれた。