戸山翻訳農場

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ブログ



2012年

9月

08日

すべて備えつけられた部屋                訳:岡野桂

 時そのもののように、休みなく、移ろいゆく、うたかたのような者たち、それがウェストサイドの南寄りの赤レンガ地区にいる大勢の人たちだ。百の家をもつ、家なき人々。すべてが備えつけの部屋から部屋へと渡り歩く、永遠の漂泊者たち――住処を漂い、心のなかを漂う者たち。「ホーム・スイート・ホーム(←すてきな我が家)」をラグタイムで歌い、大事な家財を帽子箱にいれて持ち歩く。彼らの葡萄の蔓は帽子の飾りに絡みついている。鉢植えのゴムの木が彼らのイチジクの木だ。(←[]聖書では、エジプトから出てさまようイスラエル人に主が与えようとしていた約束の地カナンは葡萄とイチジクが豊かに成る土地だった)

 だから、この地区にある、千の住人を抱える家々には、千のお話があるだろう。大方、退屈な話ばかりにちがいない。だが、放浪する客の跡を追う幽霊の一人や二人がそのなかに見あたらないとしたら、それもまたおかしな話だろう。

 夕暮れを過ぎたころ、崩れかけた赤いアパート群のあいまをうろつく若い男が、ここそこのベルを鳴らしていた。十二軒目で、ほっそりした手さげ鞄を階段におろし、帽子のリボンと額の埃を拭った。ベルの音がかすかに、どこか遠くはなれた、がらんとした奥深いところで響いた。

 ドアに出てきた、彼がベルを鳴らした十二軒目の家の管理人は、不健康な大食いの虫を思わせた。ナッツを空洞になるまで食い破ったいま、新たに食えそうな下宿人でその空洞を埋めようとしているような虫。

 空き部屋があるかどうか、彼はたずねた。

「おはいり」管理人が言った。その声は喉を通ってきたが、その喉は毛皮でびっしり覆われているみたいだった。「三階の奥が一週間前から空いてる。見てみるわよね?」

 若い男は彼女について階段をのぼった。どこからともわからない弱々しい明かりで廊下の闇は薄い。音もなく踏みしめる階段の絨毯は、編みあげた織機すら見向きもしないような代物だった。まるで腐った野菜で、悪臭たちこめる暗い空気のなかで退化して、さまざまな苔が繁茂したみたいになっている。それが階段のあちこちに生えていて、踏むとぐちゃりとする生きもののようだった。階段の曲がるところにはすべて壁龕(へきがん)があるが、どれも空っぽ。かつては草花が飾られていたのかもしれない。そうだとしたら、汚れた臭い空気にやられて死んでしまったのだろう。聖人の彫像が置かれていたということもありうるが、難なく考えられるのは、小さい悪魔や大きい悪魔に闇の中へと引きずりこまれて、はるか下の汚(けが)れた深みへ、すべてが備えつけられた地獄へと放りこまれたのだろうということだ。

 「この部屋だよ」管理人が毛皮の喉から言った。「いい部屋なの。めったに空かないもの。去年の夏も、すごっくお上品な人を泊めていたんだからね――揉めごとは一つもおこさないし、きちきちと前払いしていた。水道は廊下の突きあたりね。スプロールズとムーニィも三ヶ月ここを借りてたわ、ヴォードヴィルで漫談をやってるとき。ミス・ブレッタ・スプロールズ――ほら、耳にしたことあるでしょうよ――じつは芸名だけど――ほら、ちょうどあのタンスの上に結婚証明書が額に入れて掛けてあったわ。ガス灯はこっちね、見て、クローゼットもたっぷり入る。誰だって気にいる部屋よ。ちょっとでも遊ばしておく暇もないくらいよ、ここは」

 「劇場関係のひとによく貸してるんですか?」

 「来ちゃあ、出ていく。うちのお客の大部分は舞台関係者だから。そうよ、ここは劇場街だからね。役者ってのはどこにも長居はしないものさ。うちもそのおこぼれに預かってるってわけ。そういうこと。来ちゃあ、出ていく」

 彼はその部屋を借りることにして、一週間分を前払いすることにした。疲れているのですぐにも使いたい、と言った。お金を数えて渡した。部屋はいつからでも使えるよ、タオルや水まで用意はできているから、と彼女は言った。管理人が立ち去るとき、彼は口先まで出かかっていた質問を投げた、これでもう千回目だ。

 「若い女の子――ミス・バシュナ――ミス・エロイーズ・バシュナ――そんな子をお客さんのなかで覚えていませんか? 舞台で歌っていました、たぶんですけど。きれいな子で、背は平均的でほっそりしていて、赤みがかった金髪で、左の眉のそばに黒子(ほくろ)があるんです」

 「いや、そんな名前は思いだせないな。舞台のひとたちは、部屋も変わるけど、名前もよく変わるから。来ちゃあ、出ていく。だめだね、その名前に思い当たるものはない」

 ない、だ。いつも、ない、だ。五ヶ月のあいだずっと尋ねつづけてきたが、きまって、ない、だった。多くの時間、昼間は、支配人やエージェントや養成所やコーラスガールたちに訊いてまわり、夜は、オールスターキャストものを演っている劇場の客から、探し求める人を見つけてしまうのが怖くなるぐらい低俗なミュージック・ホールの客にまで、せっせと訊いた。彼女を深く愛した彼はなんとかして見つけようとしてきた。故郷から姿を消したときから、川にはさまれたこの巨大な都市のどこかにいるという確信はあったが、ここは途方もなく大きな流砂のようなところで、なかの砂粒は絶えず移ろい、地盤もない。今日は地表近くにあった粒も、明日には軟泥やヘドロに埋まっている。

 すべてが備えつけの部屋は、最新の客を迎え入れると、まずは熱烈に偽りの歓待の表情を見せた。疲弊して憔悴したおざなりの歓迎の顔で、まるで娼婦の愛想笑いだ。見せかけの安らぎを生んでいるのはそこかしこからの照り返しのほのかな光で、出所は、朽ちかけた家具、擦り切れた金襴の覆いをかぶったカウチと二脚の椅子、二つの窓に挟まれた幅一フィートほどの安っぽい姿見、それと、ひとつふたつの金箔の額縁、隅にある真鍮のベッドフレームだった。

 客がぐったりと椅子に倒れこむと、部屋が、あたかも多様な声が入り混じるバベルの塔の一室であるかのように、さまざまな間借人のことを語ろうとした。

 色数の多い一枚の敷物は、花々が眩しく咲く熱帯の矩形の小島みたいに、汚れたカーペットの波打つ海に囲まれている。派手な壁紙の壁にある数々の絵は家から家へと渡り歩く家なき人々を追いかけている――『ユグノーの恋人たち』、『初めてのケンカ』、『結婚披露宴』、『命の泉のプシュケ』。純朴なまでに簡素なかたちのマントルピースを辱(はずかし)めるように覆っているのはどこかセクシーな掛け布で、アマゾン族のバレエを踊る女の腰布みたいに、粋に斜めにずりおちている。その上にある寂しげなガラクタは、この部屋に漂着した者が運よく新しい港へ向かう船に乗せてもらえたときに置いていったものだ――つまらない花瓶が一、二個、女優の写真が数枚、薬の瓶が一個、ばらになったトランプが数枚。

 ひとつひとつ、暗号の文字が明らかになっていくように、すべてが備えつけのこの部屋に滞在した一連の客たちの残したわずかなしるしが意味を紡ぎだした。ドレッサーの前の敷物が擦りきれているのは、美しい女性たちが何人も闊歩してきたことを物語っている。壁についた小さな指紋は、閉じ込められた子どもたちが太陽と空気を求めて手探りしていたことを伝えている。爆弾の炸裂痕みたいに飛び散った染みは、壁に投げつけられたグラスかボトルが中身もろともここで砕け散ったのだ、と証言している。姿見には、横いっぱいに、震えた文字で「マリー」という名がダイヤモンドで刻まれていた。まるで、すべてが備えつけのこの部屋に住んできた住人たちはつぎつぎと怒りに駆られ――ここの気色悪い冷たさにどうしようもなくそそのかされて――激情をぶちまけたかのようだった。家具は、削れて傷ができていた。カウチは、膨れあがったスプリングで変形し、おぞましいモンスターがなにかグロテスクな地殻変動の力で殺害されたかのようだった。大理石のマントルピースは、なにかもっと強大な隆起現象でその一部がばっさり殺ぎとられていた。床の板はどれも、おのおのが個別の苦しみでも抱えているみたいに、それぞれに泣き言をならべて悲鳴をあげていた。信じがたいことだが、この部屋へのこういった敵意や傷害のすべては、一度はここを我が家と呼んだ者たちによって行使されたのである。しかし、我が家を持つという本能に裏切られるということがいつまでも続いてきたことが、不誠実な家庭の神々への憤懣やるかたない思いが、かれらを復讐に駆り立てたのかもしれない。我が家なら、われわれは掃除もして、飾り、大切にするものだ。

 若い間借り人が椅子にもたれて、こういった思いが心のなかをヒタヒタと通り抜けてゆくのに身を任せていると、部屋には備えつけの音と備えつけの匂いが流れこんできた。ある部屋からはくすくす笑いと、だらしなくてしまりのない高笑いが聞こえた。ほかのいくつもの部屋からは自己反省の独り言や、サイコロが転がる音や、子守唄や、もの憂い泣き声。頭上からは、元気よくかき鳴らされているバンジョー。どこかでドアがバタンと閉まった。高架線を走る電車の音が断続的に轟いた。裏のフェンスで猫が惨めそうに鳴いた。それから彼は、家が吐く息を吸いこんだ――匂いというよりも、じめっとした味がついた臭気――あたかも地下の埋葬室からのぼってくるかのような冷んやりとしたカビの臭いが、リノリウムと白カビが生えて腐った木造部から出る悪臭と混ざり合っていた。

 すると、とつぜん、休んでいる彼のいる部屋が強烈に甘いモクセイソウの香りでいっぱいになった。疾風(はやて)のごとく現れ、あまりにはっきりとして、香気あふれ、力強かったから、ほとんど生き霊のようだった。男は大声で叫んだ、「なんだい?」と、声をかけられたかのように、跳び上がってあたりを見回した。芳しい香りがまとわりつき、彼を包みこんだ。それに向かって、彼は両腕をいっぱいに伸ばした。時間の感覚がすべて混乱し、錯綜した。香りに強く声をかけられるなんてことがありうるか? もちろん、音がしたにちがいない。しかし、音だったら、触ってきたり抱擁したりはしないのでは?

 「彼女がこの部屋にいる!」彼は叫び、証拠を掴みとろうとした。彼女のもの、彼女の触ったものなら、どんなに小さなものでもわかると思った。包みこんでくるこのモクセイソウの香り、彼女が大好きでいつもふりまいていたこの匂い――どこから来る?

 部屋はおおざっぱにだが片付けられていた。ドレッサーの薄い掛け布の上にはヘアピン六本が散らばっていた――女性たちの控えめで特徴のない友だから、使ったのは女性ではあろう、しかし、どんな状態で使われたかは見当もつかない、いつ使われたのかもわからない。彼は無視した、まったくぜんぜん素性がわからないのだから。ドレッサーの引きだしをくまなく探すと、捨てられたボロの小さなハンカチが出てきた。顔に押しあててみた。淫らで傲慢なヘリオトロープの匂いがした。床に放り投げた。ほかの段の引きだしには不揃いのボタンがいくつかと、芝居のプログラムと、質札と、はぐれたマシュマロ二つ、夢占いの本があった。最後の段には女性用の黒いサテンのヘアリボンがあり、それには引き留められて、氷と炎のあいだで迷った。しかし、黒いサテンのヘアリボンも女性たちの慎ましやかで個性のないありふれた装身具で、素性は語ってはくれない。

 それからは、匂いをたどる猟犬さながらに部屋のなかを行ったり来たり、壁を舐めるように調べ、膨らんだカーペットを隅々まで四つんばいになって探し、マントルピースやテーブル、カーテンの類い、端っこの酔いどれ用のキャビネットをひっかきまわして目に見える証拠を追い求めたが、彼女がそばで、まわりで、脇で、なかで、頭上で、彼にしがみつき、甘えて、鈍感な彼にすら聞き取れるくらい痛切に繊細な感覚に呼びかけているのを、目で確かめることができなかった。彼はもう一度大声で応えた、「うん、わかってる!」 そしてふり返って野生の目を凝らしたが、なにも見えず、モクセイソウの匂いのなかに、かたちひとつ、色ひとつ、愛ひとつ、そして伸ばされた腕も見いだすことができなかった。あぁ、神よ! この匂いはどこから来るのですか、この匂いはいつから声をもち、呼びかけてくるようになったのですか? 彼は手探りしてまわった。

 裂け目や隅っこをほじくると、コルクとタバコが見つかった。どうでもよいとばかりに見おくった。だが、カーペットのよれたところから半分だけ吸った葉巻がでてくると、踵で踏みつぶして威勢よく悪態をついた。部屋の端から端まで調べ尽くした。見つかったのは、漂泊者たちのうんざりさせられる、ろくでもない、ちっぽけな品々だった。探し求めている、ここに滞在していたかもしれない、その魂がいま漂っているかのように思える彼女の痕跡は、見つからなかった。

 そのとき、管理人のことを思いだした。

 霊のいる部屋から駆けだすと、階段をおりて、光が隙間からもれているドアの前にきた。ノックに管理人が顔をだした。彼はできるかぎり興奮をおさえた。

 「お聞きしたいんですが、マダム」と懇願した、「ぼくの前にぼくの部屋を借りていたのは誰ですか?」

 「はい、もう一度、教えてあげる。スプロールズとムーニィよ、前にも言ったけど。ミス・ブレッタ・スプロールズっていうのは芸名で、ほんとはムーニィ夫人。うちはお堅いことで通ってるんだ。結婚証明書を掛けてもらう、額に入れて、釘にかけ――」(←[]当時は婚姻前の男女が同じ家に住むのはそうとうにスキャンダラスなことだった)

 「ミス・スプロ―ルズはどんなご婦人でしたか――見た目ですが?」

 「ええっと、黒い髪でしたね、小柄で、ずんぐりして、お茶目な顔をしてたね。先週の火曜日に出ていっちまった」

 「それじゃ、彼らの前に借りていたのは?」

 「そうねぇ、運送関係の仕事をしてた独身男だったかね。あいつは一週間分の家賃を払わないまんま出ていきやがった。その前は、クラウダー夫人と二人の子どもで、四ヶ月いたわ。その前が、ドイルじいさん。金は息子たちが払ってたわ。六ヶ月いたかね。これで一年さかのぼったわ。それより前は思いだせないね」

 彼は礼を言って、這うようにして部屋へ戻った。部屋は死んでいた。生気を与えていた香気は消えていた。モクセイソウの香りは立ち去っていた。あるのは、カビの生えた家具や、こもった空気からくる古いむっとする臭いだった。

 潮がひくように希望がひいて信念は干あがった。彼は腰をおろして、黄色い、歌うようなガス灯の炎を見つめた。それからベッドまで歩いていくと、シーツを裂いていくつもの細長い切れにした。ナイフの刃でドアと窓のまわりの隙間にそれらをきつく押しこんだ。すべてがきっちり整うと、炎を消し、あらためてガス栓をめいっぱい捻り、満足そうにベッドに横たわった。

 

****

 

 今日はミセス・マックールがビールを一杯やる夜だった。そこでビールをもってきてミセス・パーディと地下の隠れ家のひとつに腰をおろしたが、そこは管理人たちの溜まり場で、虫はまず死なない場所である。

 「三階の奥のを貸したさ、夕方」とミセス・パーディは細かな泡の輪の向こうから言った。「若い男が入った。二時間まえに寝ちまっただよ」

 「ほう、やったね。パーディさん」ミセス・マックールがいたく感心して言った。「あんたはすげえ、ああいう部屋を貸すことにかけちゃあ。ええっと、それで、そいつには教えてやったんか?」しゃがれたひそひそ声の、謎めいた口調になった。

 「部屋はさ」とミセス・パーディが毛皮の生えた声で言った、「どれもぜんぶ、貸せるように、すべて備えつけにしてるさ。あのことは言ってねえ、マックールさん」

 「そりゃあ、そうだな。あたしらは、部屋貸さなきゃ、生きてけないんだから。あんたの商売のセンスはすげえよ。部屋借りるのをやめるやつ、いっぱい出てくるもんな、もしもそこでは自殺がありました、ベッドで死んでました、なんて言われたら」

 「あんたの言うとおりよ。あたしらも生きてかなきゃなんねえ」ミセス・パーディが言った。

 「そうともよ。そういうもんだ。今日でちょうど一週間か、三階の奥のあそこをきれいにするの、手伝ったのは。なにを間違ったのか、あんな娘がガスで自殺しちまうなんて――かわいい小さな顔をしてたよ、パーディさん」

 「美人って言われてたろう、あんたの言うとおり」とパーディは同意しながらも一言付け加えた、「あの左の眉のそばにでっかい黒子(ほくろ)がなかったらね。ほら、もう一杯どう、マックールさん」

 

 

 

 

 時そのもののように、淀むことなく、移ろいゆく、うたかたが、ロウァ・ウェスト・サイド・赤れんが地区に住まう大勢の人たち。百の家をもつ家なき人々。すべてが備えつけられた部屋から部屋へと渡り歩く、永遠の漂泊客たち――住処を漂い、心も漂う。『ホーム・スイート・ホーム』をラグタイムの調べで歌い、大事な家財を帽子鞄につめて持ち歩く。彼らの葡萄の蔓は、帽子の飾りに絡みついている。鉢植えのゴムの木がイチジクの木だった。

 

 だからこの地区にある、千の住人を抱える家には、千の語り草があるだろう。大方、退屈な話ばかりにちがいない。だがそのなかに、根なし草の客たちを追いかける幽霊の一人や二人見あたらないとしたら、それはおかしな話だろう。

 

 夕暮れを過ぎたころ、崩れかけた赤いマンションのあいまをうろつく若い男が、ここそこのチャイムを鳴らしていた。十二番目のベルで彼は、痩せた手さげ鞄を階段におろし、帽子のリボンと額の埃を拭った。ベルの音がかすかに、どこか遠くはなれた虚ろな奥底で響いた。

 

 彼がベルを鳴らした十二番目の家のドアから出てきた管理人は、空洞になったナッツの殻を喰い破り、いまは食い物客でその空きを埋めようとしている不健康な暴食の虫を思わせた。

 

 彼は空き部屋があるかどうか、たずねた。

 

「お上がりよ」管理人が言った。彼女の声が発せられたその喉は、柔毛でびっしりと覆われているみたいだ。「三階、奥が一週間前から空いてるよ。見てみるわよね?」

 

 若い男は彼女にならって階段をのぼった。どこからともわからない弱々しい明かりが廊下の暗闇を薄めていた。産みの織り機も見捨てたくなるようなカーペット敷きの階段を音もなく踏みしめる。それは植物も同然だった。悪臭たちこめる陰気な空気のなかで堕落してしまったのだ。まばらだった黴や苔が、だんだんと階段ぜんたいに広がってゆき、踏むとぐちゃりとする生きもののようになるまで蔓延していた。階段の踊り場にはそれぞれ空いた壁龕がある。かつては草花が飾られていたのかもしれない。もしそうだとしたら、汚れた臭い空気にやられてしまったのだろう。そこには聖人の彫像が置かれていたという線もあるが、インプや悪魔が闇の中へ引きずり込んで、すべてが備えつけられた、地獄の不浄な穴蔵に放りこまれてしまったと想像するのは難しくない。

 

 「この部屋だよ」管理人が柔毛の喉から声をだした。「いい部屋なのよ。めったに空かないもの。去年の夏も、すごっくお上品な人を泊めていたんだからね――揉めごとは一つもおこさないし、きちきちと前払していたわ。水道は廊下の突きあたり。スプロールズとムーニィが三ヶ月ここを借りてた。ヴォードヴィルのお芝居やってるさ。ミス・ブレッタ・スプロールズ――ほら、耳にしたことあるでしょうよ――でも実は芸名なの――ちょうどあのタンスの上に結婚証明書が額に入れて掛けてあった。ガスはこっち、見てご覧、クローゼットもたっぷりと入れられる。誰だって気にいる部屋よ。ちょっとでも遊ばしておくことなんてないんだから」

 

「役者をなさってる方々によく貸していますか?」

 

「いっつも出入りしてるよ。うちのお客の大部分は舞台関係者なんだから。そうだよ、ここは劇場街だからね。役者ってのは、一つの場所にじっとしてないんだ。うちもおこぼれに預かってるのさ。そういうこったよ。やってきては、出て行っちゃうんだ」

 

 彼は部屋を借りて、一週間分前払いした。疲れているので、すぐに借りたいんですと言った。彼はお金を数えて渡した。部屋の準備はタオルや水までちゃんとできている、と彼女が言った。管理人が立ち去るとき、彼は口から出かかっていた質問を、もう何度目になるかわからないが、投げかけた。

 

「若い女の子――ミス・バシュナ――ミス・エロイーズ・バシュナ、お客さんのなかで、そんな子がいたのを覚えてませんか?舞台歌手でした、たぶんですけど。きれいな女の子、身長は平均的でほっそりしていて、赤みがかった金髪それであと、左眉のそばにほくろがあるんです」

 

「そんな名前は思いだせないよ。役者連中は部屋を移るたんびに名前を変えちまうからね。やって来ては去っていっちまうのさ。でも、その名前はわからないわ」

 

 わからない。いつもわからない、と。五ヶ月のあいだずっと尋ね続け、きまって否定されてきた。昼間は、支配人、エージェント、養成所、そしてコーラスたちを尋ねてまわってほとんど潰れてしまう。夜になれば観客席にいく。オールスターキャストものから、心から探し求めている人を見つけてしまうのが怖くなるぐらい低俗なヴォードヴィルのステージまで。彼女を深く愛した彼は、なんとかして見つけようとしてきた。故郷から姿を消した日から、この水に囲まれた巨大な都市のどこかに彼女がいるという確信はあったが、そこは砂粒が絶えず移ろいゆく途方もない流砂のようで、地盤もなく、今日は地表にあった砂が、明日にはどろどろの粘土や泥に埋まっているのだ。

 

 すべてが備えつけられた部屋は、心がないおもてなしの明かりを灯して、新しい客を迎えいれた。まるで娼婦の愛想笑いのように、やつれた目つきで頬を赤らめる熱がない接客だった。見せかけのくつろぎを生む家具がほのかな光を照り返して、使い古された姿をあらわした。金糸刺繍の張り地が破けたソファと二脚の椅子、二つの窓に挟まれた一フィートほどの安っぽい姿見、金塗りの額縁が一つ、二つ、隅にある真鍮製のベッドフレーム。

 

 客人が椅子にぐったりと倒れこむと、あたかもバベルの一室であるかのように多種多様な声を混濁させながら部屋は、これまでのいろんな間借り人のことを語って聞かせようとした。

 

 色が多い敷物が、鮮やかな花々のトロピカルな矩形小島みたいに、汚れたカーペットでできたうねる海にとり囲まれている。派手な壁紙には、家から家へと渡り歩く根無し草たちにつきまとう絵がある――『ユグノーの恋人たち』、『初めてのケンカ』、『結婚披露宴』、『命の泉のプシュケ』。質素で清純そうなマントルピースは、歌って踊る女がつけるサッシュに似てセクシーにずりおちた掛け布がでしゃばっている後ろで、不名誉に甘んじている。その上には、この部屋にきた流れ者が運よく新しい港へ向かう航海にありつけたとき、はね除けられたガラクタが寂しく佇んでいた――つまらない瓶が一、二本、女優の肖像画、薬の容器、デッキからはぐれたトランプが数枚。

 

 一つひとつ暗号の法則が明らかになっていくように、すべてが備えつけられたこの部屋に泊まってきた人たちの残した微かなしるしが意味を紡ぎだした。ドレッサーの前のカーペットが擦りきれたところは、美しい女性たちが気取って歩いてきたことを物語る。壁の小さな指紋は、囚われた子どもたちが太陽と空気を求めて手探りしていたことを伝えている。爆弾の炸裂痕みたいに飛び散った染みは、壁に投げつけられたグラスかボトルが中身もろとも砕け散った場所を証言している。姿見には端から震えた文字で「マリー」という名が、ダイヤモンドで刻まれている。すべてが備えつけられた部屋に住んできた人々は怒り――くつろぎを騙る冷たさに我慢できなくなったのだろうか――激情をぶちまけたようだ。備えつけの家具は削れて、へこんでいる。カウチはスプリングが破裂して歪み、まるで壮絶な地殻変動で潰されて絶命したおぞましいモンスターみたいだ。さらにひどい地殻の隆起もあり、大理石のマントルピースが大きく引き裂かれていた。床の板はおのおの個別の苦しみがあるようで、どれもちがう泣き言をならべ、悲鳴をあげる。信じられないかもしれないが、この部屋に対する恨みつらみや破壊のすべてが、一度はここを我が家と呼んだ人たちによるものなのだ。しかし、よい家庭を築きたいという昔ながらの一途な本能を手玉にとられたのかもしれない。上辺だけの家庭の守り神への激しい怒りが彼らの復讐の引き金になったのだ。みすぼらしくても我が家ならば、掃いて、飾り、大切にするものである。

 

 若い間借り人は椅子にもたれたまま、これらの思念が自分の心をひたひたと通り抜けてゆくのに身を任せていたが、部屋には、備えつきの音と備えつきの匂いが流れこんでいた。ある部屋ではクスクス笑いと、下卑たしまりのない笑い声が聞こえ、他では自己反省の独り言、サイコロが転がる音、子守唄、もの憂い泣き声。頭上ではバンジョーが元気よくかき鳴らされている。あっちやそっちでドアがバタンと閉まる。高架線を走る列車の断続的な轟音。裏のフェンスで猫が惨めったらしく鳴いている。それから彼はマンションの呼気を吸い込んだ――匂いというよりも、じめっとした風味――あたかも地下埋葬室からのぼってくるような冷たいカビの臭いがリノリウムと、白カビと腐食にやられている木材がだす悪臭に混ざり合っている。

 

 そうして彼がまどろんできたとき突然、甘く強烈なモクセイソウの香りで部屋が満たされた。はやてのごとく現れ、あまりにはっきりとして、香りだかく、力強かったから、ほとんど生き霊のようだった。男は声にだして叫んだ。「なんだい?」自分が呼ばれた気がして、飛び上がり、顔を向けた。芳しい香りが彼にまとわりつき、包みこんだ。彼はそれに両手を伸ばしたが、そのあいだすべての感覚が混乱し、交錯した。香りが、急きたてるように呼びかけてくるなんてありえない。きっと、音が鳴ったにちがいない。でも、音が撫でたり、抱擁したりしたっていうのか?

 

「この部屋にいるんだ!」彼は叫び、そこからしるしを掴みとろうとした。彼女の身につけたものや触ったものならどんなに小さくてもわかると思ったからだ。あたりを包むモクセイソウの香りは彼女が大好きで、つけていた匂いだった――どこから来たんだろう?

 

 部屋は大雑把にだが片付けられている。ドレッサーの薄い敷き布にはヘアピンが六本散らばっている――目立たない、さしたる特徴のない女性の友だち、使ったのは女性だろうが、どんな状態で使われたかは見当もつかず、いつ使われたのかもわからない。無視だ。圧倒的に素性がわからないものなんて。ドレッサーの引きだしをくまなく探して、捨てられたボロの小さなハンカチを見つけた。それを顔に押しあてみる。淫らで傲慢なヘリオトロープ。それを床に放り投げた。ほかの段の引きだしには不揃いのボタンがいくつか、劇のパンフレット、質札、はぐれたマシュマロが二つ、夢占いの本があった。最後の段には、黒いサテン地のヘアリボンがあり女性のもので手をとめ、氷と炎のあいだでバランスを保つ。だがこの黒いサテンヘアリボンも女性の慎ましやかで本性が見えない、ありふれたアクセサリでしかなく、身の上話を語ってはくれない。

 

 それから彼は、匂いをたどる猟犬さながらに室内を行ったり来たりして、壁を調べ、四つんばいになり、膨らんだカーペットの隅々まで捜索すると、マントルピースやテーブル、カーテンをはじめ掛けてあるもの、端っこで酔いつぶれているキャビネットをひっかきまわして目に見える証拠を求めた。彼女がとなりに、まわりに、目の前に、うちに、あたまの上にいて、身を寄せ、愛撫しながら痛切に呼びかけてくるのが、繊細な感覚にまで伝わるようになり、鈍感な彼にも呼び声がわかるようになってきた気がするのに、目で確かめることができない。彼はもう一度、声にだして応えてみる。「そうだよ、わかっているよ!」ふり返って野生の目を凝らすが何もない。モクセイソウの匂いのなかで、その姿形、色も愛も、そして伸ばされている両腕も見分けることができないままであった。あぁ、神よ!この匂いはどこから来たのですか。この匂いはいつから声をもち、呼びかけてくるようになったのですか?そうして、彼は手探りをする。

 

 裂け目や隅をまさぐって、コルクとタバコを見つけた。それらをどうでもよいと見おくった。だが、カーペットのよれたところから半分になった吸い殻がでてくると、踵で踏みつぶして、威勢よく酷い悪態をついた。部屋の端から端まで調べた。見つかったのは、多くの寄るべない客たちの、うんざりさせられる、取るにたりないちっぽけな記録だった。そこに探し求めている彼女の名前はない。ここに泊っていただろうに、その魂はここを彷徨っているようなのに、彼はしるしを見つけられなかった。

 

 ふいに管理人のことを思いだした。彼は取り憑かれた部屋から駆けだして、階段をくだり、光が隙間からもれているドアまでやってきた。ノックに気づき彼女は顔をだした。彼はできる限り興奮をおさえた。

 

「お聞きしたいことがあるんですよ。マダム」彼は懇願した。「ぼくがくるまえに、ぼくが泊っている部屋を借りていたのは誰なんですか?」

 

「もう一度、教えてあげる。スプロールズとムーニィよ、まえに言ったはずだがね。ミス・ブレッタ・スプロールズっていうのは芸名でさ、ほんとはムーニィ夫人だったわけ。うちはお堅いことで通ってるだよ。結婚証明書を掛けてもらう、額に入れて、釘にかけ――」

 

「ミス・スプロ―ルズはどんなご婦人でしたか―ー見た目はどんな?」

 

「ええっと、黒い髪でちっちゃくて、ずんぐりして、お茶目な顔をしてたね。先週の火曜日に出ていっちまったよ」

 

「それじゃ、彼らのまえに借りていたのは?」

 

「そうねぇ、荷馬車関係の仕事してた独身男だったかね。あいつは一週間分の家賃払わないまんま出てきやがった。そのまえは、クラウダ夫人と二人の子どもで四ヶ月いたわ。その次が、ドイルじいさん。息子たちが金払ってたわ。六ヶ月借りてたかね。これで一年さかのぼったわ。それよりまえは思いだせないね」

 

 彼は礼を言って、這うように部屋へ戻った。部屋は死んでいた。生気の源は枯れていた。モクセイソウの香りは消え去っていた。そこにあるのは、カビの生えた家具や、貯蔵庫にこもった空気からくる古いむっとする臭いだった。

 

 潮がひくように希望がついえて信念は干上がった。彼は腰をおろして、ガス灯の歌う黄色い炎を見つめた。すぐにベッドまで歩き、シーツを細切れに引き裂きはじめた。ナイフの刃を使って、ドアと窓のまわりに隙間ができないようにそれをきつく押しこんだ。どこももれなく詰めてしまうと、明かりを消し、あらためてガス栓をめいっぱい捻ってから、満足そうにベッドに横たわった。

 

*****

 

 今日はミセス・マックールがうまいビールを一杯やれる夜だった。マンションの管理人たちが集う地下の隠れ家の一つでビールを手にして、ミセス・パーディと一緒に腰をおちつけた。息絶えことも珍しき虫たちである。

 

「あたしゃ、三階の奥のを貸しだしたよ、夕方さ」ミセス・パーディはビールの泡ごしに言った。「若い男が入ったよ。二時間まえに寝ちまった」

 

「ほう、やったじゃないか。パーディさん」ミセス・マックールがいたく感心しながら言った。「ああいう部屋を貸すのにかけちゃすげえなぁ。ええっとそれで、そいつに教えてやったんか?」不思議でいっぱいとばかりに、しゃがれたひそひそ声で言葉をしめくくった。

 

「部屋には」ミセス・パーディが柔毛が生えた声色で言う。「貸すために家具からなにから備えつけてんだ。教えてやっちゃだめよ。マックールさん」

 

「あんた、そうでなくっちゃ。部屋貸さなきゃ、うちらは生きてけないんだ。

 

あんたの商売のセンスはすげえよ。部屋借りるのやめる人間はいっぱいるだろうね。もし自殺したやつがいたなんてきいちゃさ。それにそのベッドで死んじまってたなんてよ」

 

「あんたの言うとおりよ。あたしらも生きていかなきゃならいからね」ミセス・パーディが言った。

 

「そうともよ。そういうもんだ。今日のちょうど一週間まえに、あの三階、奥をきれいにするの手伝ったんだった。あんなすっごく細くてかわええ女がガスで自殺しちまうなんて――顔も小さくてほれぼれしたね、パーディさん」

 

「あの子は美人って言われてたね、あんたの言うとおり」と、パーディは同意しながらも皮肉った。「あの左眉のそばにあったでっかいホクロがなけりゃあね。ほら、もう一杯どうだい、マックールさん」