戸山翻訳農場

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2013年

1月

25日

マディソン・スクエア千夜一夜物語           訳:堀江里美

 カーソン・チャルマーズという、マディソン・スクエア近くのアパートメントに暮らす男のもとへ、フィリップスが夕方の郵便物を持ってきた。おきまりの配達物にまじって、同じ外国の消印が押されたものが二通あった。

  片方の封書には女性の写真が入っていた。もう片方のには長たらしい手紙が入っていて、チャルマーズは長いこと引きこまれるように読みふけった。手紙はべつの女性からのもので、文面には毒の棘(とげ)があり、甘い蜂蜜にひたされてはいたが、写真の女性にかんする厭味が羽毛のようにびっしり覆っていた。

 チャルマーズは手紙を千々に引き裂くと、高価なじゅうたんを磨り減らさんばかりに大股で行ったり来たりしはじめた。ジャングルの獣(けもの)は檻に閉じ込められるとそういう行動にでるが、疑念のジャングルに閉じ込められた人間もおなじ行動をするのである。

 だんだんと不安は抑えられていった。彼のじゅうたんは魔法のじゅうたんではなかった。十六フィート(←五メートル)先へ行くことはできても、三千マイル(←五千キロ)彼方まで運んでくれる力はなかった。

 フィリップスがあらわれた。彼はいつも、入ってくるというより、すっとあらわれる。まるでランプの精のように。

 「お食事はここでなさいますか、それとも外で?」フィリップスが訊いた。

 「ここでいい」チャルマーズは言った。「三十分後にしよう」彼はむっつり顔で、一月の風が風の神(アイオロス)のトロンボーンのように人けのない通りを吹き抜けていくのに耳をかたむけた。

 「ちょっと待て」消えかかっていたランプの精を呼びとめた。「帰りがけに広場のはずれで、男たちが長い列をつくっているのを見かけた。ひとりは一段高いところで、なにかしゃべっていた。なんの行列だ、あそこでなにをしているんだ?」

 「ホームレスの者でございます、旦那さま」フィリップスは答えた。「箱の上に立っている者は、彼らに今晩の宿を世話しようとしているんです。集まってきた者が男の話を聞いて、お金を出す。そうして集まったお金でまかなえるだけの人数を、どこかの安宿に送りこむ。それで並んでいるんです。来た順に、寝床にありつけます」

 「食事の時間までに」チャルマーズは言った、「あのなかからひとり、ここへ連れてこい。いっしょに食事をしてもらう」

 「ど、どの者を――」フィリップスは言ったが、どもったのはここに来て以来初めてのことだった。

 「てきとうでいい」チャルマーズは言った。「そんなに酔っぱらってなければ――あとは、あるていど小ぎれいだったらかまわない。以上だ」

 カーソン・チャルマーズがカリフを演じるなど、めったにないことである。けれども今夜は、ありふれた解毒剤では憂鬱を拭い去ることはできそうになかった。破天荒でなんでもありの、薫り高いアラビア的ななにかで、気分を晴らす必要があった。

 三十分で、フィリップスはランプの奴隷としての任務を終えた。階下のレストランからウェイターたちがごちそうをせっせと運びあげた。食卓は、二人用にととのえられ、桃色の蝋燭(ろうそく)の明かりに楽しげに輝いた。

 そして、フィリップスが、枢機卿を案内するかのように――あるいは盗賊を引っ立てるかのように――震えるお客をふわりと運んできた。寝床を求める行列から引っぱってきた。

 よくこういう人間を難破船と呼ぶが、ここでその喩えを使うなら、不運にも火災に遭って遺棄された船といったところだった。ちらちらとしぶとく燃え残る炎が漂流する船体を照らし出していた。顔と手はいまさっき洗ったばかりだった――むざむざと破られた慣習を悼んでフィリップスがやらずにいられなかった儀式だった。蝋燭の明かりのなかにたたずむ男は、上品な調度品が並ぶ部屋を汚していた。顔は不健康に青ざめ、目元まで覆う無精ひげが、赤毛のアイリッシュセッターを思わせた。朽ち葉色の髪は、フィリップスの櫛でもどうすることもできなかったらしく、もつれにもつれて、かぶりっぱなしだった帽子のかたちに固まったままだった。その目に満ちた絶望と、ずるがしこそうな敵意は、虐待する人間に追いつめられた野良犬のものだった。ぼろぼろの上着は高いところまでボタンがとめてあったが、やけにきれいな襟が申し訳程度にその上からのぞいていた。円いテーブルの反対側にいたチャルマーズが椅子から立ちあがっても、物怖じする様子はまったくなかった。

 「もしよかったら」主人が言った。「食事におつきあいいただけるとうれしいのだが」

 「おれはプルーマー」路上からやってきた客は、荒っぽく挑むような口調で言った。「もしあんたがおれと同じ考えなら、食事をともにする相手の名前くらい知りたいのじゃないかと思うでしょうから」

 「いま言おうとしていたところだ」チャルマーズはいくぶんあわてて言った。「チャルマーズといいます。どうぞそちらにおかけください」

 プルーマーという、羽根(プルーム)を逆立てたような頭の男は軽く膝を曲げて、フィリップスが椅子を滑りこませられるようにした。あらたまった席につくのは初めてではないらしかった。フィリップスがアンチョビとオリーブを並べた。

 「こりゃいい!」プルーマーが声を張りあげた。「コース料理ということですな? 承知しましたぞ、我が寛大なるバグダードの支配者よ。シェヘラザードになってさしあげましょう、最後の爪楊枝が出てくるそのときまで。東洋の趣(おもむき)を真に心得たカリフに巡りあったのは、落ちぶれて以来初めてだ。ツイてるぞ! なにせ四十三番目だったのだから。まさに数え終えたとき、こちらの使いの方があらわれて宴に招いてくだすった。今晩、寝床にありつくのは、次期大統領になるのと同じくらい難しかったはずだから。おれの悲しい身の上を、いかようにお聞きになりたいですかな、ミスター・アル・ラシード――一品ごとに一章ずつやりますか、葉巻とコーヒーをおともに全篇通して語りますか」

 「こういうことは目新しくもなんともないみたいだね」チャルマーズは言ってにっこりした。

 「預言者ムハンマドの顎ひげにかけて――いかにも!」客は答えた。「ニューヨークには安っぽいハルーン・アル・ラシードがうようよいますよ、バグダードにノミがうようよいるみたいに。ごちそうという武器を突きつけられて身の上話を要求されたことなど二十回はくだらない。見てみたいもんだね、このニューヨークにタダでものをくれる人間がいるんなら! ここでは好奇心と慈善はいっしょさ。たいていは十セント銅貨とチャプスイを恵んでくれる程度だが、なかにはたまに最上級のサーロインでもってカリフを演じようとするやつもいる。でもね、誰もなかなか解放してくれない、自叙伝の脚注から付録からカットされた部分まで、すべて絞りとるまでは。もうね、わかってるんだ、この地下鉄の走るリトル・バグダードで飯のタネがむこうからやってきたらなにをすべきかは。アスファルトに三回、頭を打ちつけて、夕飯をかけた壮大な作り話を披露する準備をするよ。おれはさ、かのトミー・タッカーの末裔だよ。あの歌声を披露しなければ反吐みたいなお粥(かゆ)とスープにもありつけなかった男の子のね(←マザーグースの「リトル・トミー・タッカー」のこと。孤児のトミーは歌をうたって食べ物をもらうが、それを食べるためのナイフとフォークがない)」

 「身の上話が聞きたいわけじゃないんだ」チャルマーズは言った。「正直なところ、ひょいとした思いつきで知らない方と食事をしてみたくなっただけでね。わたしの好奇心の相手をする必要などありませんよ」

 「なにをバカな!」客はそう叫んで、がつがつとスープをかきこんだ。「おれはいっこうにかまいませんよ。よくある赤い表紙の東洋の雑誌とでも思ってください、カリフのおでましに合わせてページをいくらでもお切りしますよ。じつはね、おれらみたいな寝床を求めて行列に並ぶ連中のあいだには、こういうことにかんする相場みたいなのがあるんだ。つねに誰かしら足を止めて、世の底辺に身をやつした理由(わけ)を知りたがるもんだからね。サンドイッチとビールなら、酒のせいだと話す。コンビーフ入りのキャベツ炒めとコーヒーなら、無慈悲な大家のせいで六カ月の入院生活を強いられ仕事をクビになった話をする。サーロインステーキに宿一泊分の二十五セント硬貨なら、一瞬で大金をすって徐々に堕ちていったウォール街の悲劇を語る。しかし、こんなすごいのにあたったのは初めてだ。見合う話がない。だからね、チャルマーズさん、お礼に真実を話しますよ。聞いてくださいますか。作り話より信じられない話だけど」

 一時間後、このアラビアの客は後ろにもたれて満足そうにため息をついた。フィリップスがコーヒーと葉巻を運んできて、テーブルの上をかたづけた。

 「シェラード・プルーマーという名前を聞いたことはあります?」客はそう訊いて、意味ありげな笑みを浮かべた。

 「聞いたことがある」チャルマーズは言った。「絵描きで、たしか数年前にかなり話題になった人じゃないか」

 「五年前さ」客は言った。「それからおれは鉛の塊のごとく沈んだ。シェラード・プルーマーっておれなんだよ! 最後に描いた肖像画の売値は二千ドル。それ以降は、たとえタダだと言っても、誰も描かせてくれなくなった」

 「なにか問題でもあったのかい?」チャルマーズは訊かずにいられなかった。

 「それがおかしな話でね」プルーマーは苦い顔で答えた。「おれにもさっぱりわからない。あるときまではコルクみたいにすいすい泳いでいた。社交界の波に分け入ると、右から左から仕事が舞いこんできた。新聞には流行画家ともてはやされた。ところがおかしなことが起こりはじめたんだ。描き終えた絵を見にきた連中が、みんな、こそこそしながらいぶかしげに顔を見合わせるんだよ。

 「すぐになにが問題かわかった。肖像画の顔に、本人の隠れた内面を描き出す力がおれにあったんだな。なんでそんなことになるのかはわからない――見たままに描いただけなんだから――でも、とにかくそれが原因さ。カンカンに怒って、絵を突っぱねるやつもいた。えらい美人で、社交界に名を馳せていたご婦人の肖像画を描いたこともあったがね、完成した絵を見にきた旦那は、妙な顔でそれをながめ、翌週には離婚訴訟を起こしたよ。

 「ある有名な銀行家のこともよく覚えている。アトリエにその肖像画を置いといたら、その銀行家の知り合いがやってきて、絵を見て言った。『驚いた、あの人は本当にこんな顔でしたっけ?』おれは、忠実に描いたつもりですけど、と答えた。すると『こんな目つきをしていたなんて、いままで気づかなかった』と言い、『あとで寄って、口座をかえよう』と。そして行ったはいいが、口座は跡形もなく消えて、銀行家殿もいっしょにどろんだ。

 「それからおれが完全に干されるまでに、そう長くはかからなかった。誰だって内に秘めた卑しい部分を絵に暴き出してもらいたいとは思わないから。笑ったり顔を歪めたりして、よそさまの目を欺くことはできるが、しかし、絵はそうじゃない。注文がひとつも入らなくなってね、あきらめるほかなくなった。しばらくは新聞の挿絵とか石板画とかもやったが、やっぱり同じ問題にぶつかったよ。写真をもとに描いても、写真ではわからない特徴や表情があらわれてくるんだ、まあ、もともと備わってたものなんだと思うんだけどね。依頼人からは苦情の嵐で、とくにご婦人方はうるさくって、どの仕事も長続きしなかった。そんなこんなで傷ついた心を酒という古女房の胸に慰めてもらうようになったわけ。そこからはあっというまさ、寝床の行列に加わって、市場でも巡るみたいに作り話で施しをもらうようになったよ。いかがですか、真実の物語はお気に召しませんでしたかな、カリフ? お望みなら、ウォール街の悲劇に切り替えてもいいけど、そっちはちょいと涙が必要なんで、こんなすばらしい食事のあとじゃ、うまいこと泣けそうにありませんがね」

 「いやいや」チャルマーズは真剣な顔で言った。「なんとも興味深い話だよ。あなたが描く肖像画はすべてモデルの嫌な部分を暴露していたのかね、それとも、あなたの特異な筆の試練を経ても、なんともないという人もいたのかね?」

 「いたかって? いましたとも」プルーマーは言った。「子供はたいていだいじょうぶでした、かなりの数の女性も、それなりの数の男性もね。嫌な人間ばかりじゃありませんから。本人に問題がなければ、絵にも問題はないんです。さっきも言ったように、おれにもうまく説明できないがね、とにかくそういうことなんだ」

 チャルマーズの机の上に、その日に外国から届いた写真がのっていた。十分後、彼はプルーマーにパステルでその写真のスケッチを描いてもらうことにした。一時間が過ぎ、画家は立ちあがって、けだるそうに大きく伸びをした。

 「できましたよ」あくびをした。「時間がかかって申し訳ない。なかなかやりごたえのある仕事だった。なんともね! ですが、へとへとだ。なにせ昨日は寝床にありつけなかったもんでね。そんなわけで、そろそろおいとましますわ、慈悲深き統治者様よ!」

 チャルマーズは玄関まで送っていき、彼の手に紙幣を何枚か握らせた。

 「おやおや! ありがたくちょうだいしますよ」プルーマーは言った。「これもこの転落人生あってこそですな。ありがとう。そしてすばらしい食事も。今夜は羽毛にくるまってバグダードの夢でも見るとしましょう。朝になっても夢だと気づかなければいいんだが。ごきげんよう、稀に見るすばらしきカリフよ!」

 ふたたびチャルマーズは不安げにじゅうたんの上を行ったり来たりしはじめた。しかし、その範囲は、部屋の広さが許すかぎり、パステル画のあるテーブルから離れたところにかぎられた。二度、三度と絵に近づこうとしたが、できなかった。こげ茶や金や薄茶といった色が使われているのはわかったが、恐怖が打ち立てた壁が彼を寄せつけなかった。腰を下ろし、気持ちを落ち着けると、ぱっと立ちあがって、フィリップスを呼んだ。

 「この建物に若い画家が住んでいたね」彼は言った、「――ライネマンとかいう――部屋はわかるか?」

 「最上階の、通り側でございます」フィリップスが言った。

 「行って、ほんの二、三分、ここへお越しいただけないか訊いてきてくれ」

 ライネマンはすぐにやってきた。チャルマーズは自己紹介した。

 「ライネマンさん」彼は言った、「そこのテーブルに、小さなパステル画があるだろう。よかったら、その芸術的価値と絵そのものについて、意見を聞かせてもらえないだろうか」

 若い画家はテーブルに歩み寄って、スケッチを手にとった。チャルマーズは半分からだをそむけるようにして、椅子の背に寄りかかっていた。

 「絵は――いかが――かな?」彼はゆっくりとたずねた。

 「絵としては」画家は言った。「いくら褒めても褒めたりないくらいです。名匠の作品ですね――大胆で、繊細で、真に迫っている。ちょっと戸惑っています。こんなすばらしいパステル画は何年も見たことがなかったので」

 「顔というか、その――テーマ――モデル――についてはいかがかな?」

 「顔はですね」ライネマンは言った、「まさしく神に仕える天使のお顔です。いったいこれはどなた――」

 「妻だよ!」チャルマーズは叫んで、くるりとふりかえると、びっくりしている画家に飛びついて手を握りしめ、背中をばんばんと叩いた。「ヨーロッパへ旅行中なんだ。ほら、そのスケッチを持って帰って、きみの最高傑作を描いてくれ。お代はまかせろ」