月曜 14:45~18:00
木曜 16:30~18:00
金曜 18:00〜21:30?
ある日の晩、アンディ・ドノヴァンがマンハッタンの二番街にある下宿で夕食をとろうとすると、大家のスコット夫人は彼に新しい下宿人の若い女性、コンウェイ嬢を紹介した。コンウェイ嬢は小柄で印象の薄い娘だった。地味な黄色味がかった茶色のドレスを着ていて、視線を物憂げに皿の上にそそいでいた。彼女はおずおずと目蓋をあげ、目ざとく見定めるような一瞥をドノヴァンにくれると、丁寧に彼の名前をつぶやき、再び食べかけの羊肉に集中しはじめた。ドノヴァン氏は礼儀正しく輝くような笑顔とともにお辞儀をした。このふるまいのおかげで彼は社会的にも、仕事の上でも、また政治的にもたちまち出世を果たしてきたのだった。そして茶色のドレスのことなどすっかり心のメモ帳から消し去ってしまった。
二週間後、アンディは玄関前の階段に座り葉巻をふかしていた。するとサラサラと衣ずれの音が背後から聞こえてきたので、くるりと頭をそちらへ向け――そのまま釘付けになってしまった。
ちょうどドアから出てきたのはコンウェイ嬢だった。闇夜に見まがう漆黒のドレスを身にまとっており、その生地の名はクレープ・デ…、クレープ・デ…、とにかく例の薄くて黒い品である。かぶっている帽子も黒く、それからたれ下り揺れているのは、クモの巣のように薄い黒檀色のベールだった。彼女は階段の一番上に立ち、黒い絹の手袋をはめた。白い埃や色染みは一つとしてドレスに見あたらなかった。その豊かな金髪はほとんどたゆむことなくきっちりと首の下のあたりで結われ、滑らかに光沢を帯びていた。彼女は美人というわけではなかったが、今やその顔は大きな灰色の瞳によってほとんど美しいといっていいほどに輝き、通りの向こうの家々の上空を見つめるそのまなざしは、悲しみと憂鬱さをこれでもかというほど強く訴えかけていた。
考えてみてごらんなさい、お嬢さんがた――全身黒ずくめ、そして生地に好ましいのはクレープ・デ…ああ、クレープ・デ・シン、それだ。全身真っ黒、そして悲しげな、彼方を見やるまなざし、髪は黒いベールの下で輝いている(金髪でなければいけませんよ、もちろん)、そしてこう見えるようにふるまいなさい、新たな人生の門出に心を弾ませていたその矢先に、自分の若い人生に打撃が与えられてしまったけれど、公園を散歩なんてすればきっと気分が晴れるのではないかという風に。そしてタイミングを見はからってドアから出てきなさい、そうすれば――ああ、いつだって男はあなたを放ってはおかないでしょう。しかしこれはちょっとひどすぎるでしょうか、いくら私が皮肉屋だといっても――喪服についてこんな風に語るというのは。
ドノヴァン氏はコンウェイ嬢のことを、サッと心のメモ帳に書きなおした。彼は残り三センチほどの葉巻を、あと八分は楽しめたであろうに捨て去ると、すばやく重心を彼のローカットのエナメル靴に移した。
「すがすがしい、良い夜ですね、コンウェイさん」彼は言った。もし気象局がその自信に満ちた声の調子を聞けば、快晴をあらわす白く四角い合図の旗を揚げ、それを旗竿に打ちつけたことだろう。
「そういうことを楽しめる心境にある人にとっては、いい天気でしょうね、ドノヴァンさん」コンウェイ嬢はため息をついて言った。
ドノヴァン氏は心の中で晴天を呪った。非情な天気め!あられが降り、風が吹き荒れ、雪が舞っていなければいけないのだ、コンウェイ嬢の気分と釣りあうためには。
「お身内のどなたにも…不幸がおありでなければよいのですが」ドノヴァン氏は思いきって尋ねてみた。
「死は奪っていきました」コンウェイ嬢はためらいながら言った――「身内ではありませんが私の…でも私の悲しみをあなたに押しつけるわけにはいきません」
「押しつけるですって?」ドノヴァン氏は異を唱えた。「とんでもないコンウェイさん、僕は嬉しいんです、いや嬉しいというのはつまりその、お気の毒に思っています…僕が言いたいのは、僕が他の誰よりもあなたに同情しているってことです」
コンウェイ嬢はかすかにほほ笑んだ。そして、ああ、それは彼女の普段の顔つきよりもいっそう悲しげに見えるのだった。
「“笑えば世界は共に笑う、泣けば世界は笑いを与える”」彼女は詩の一節を持ちだした。「私はこのことを身をもって知りました、ドノヴァンさん。私には友人も知りあいもこの街にいません。でもあなたは私に親切にしてくださいました。とても感謝しています」
ドノヴァン氏は胡椒を二回、食卓で彼女に取ってやったことがあったのだ。
「ニューヨークでひとりぼっちなのは辛いことです…確実に」ドノヴァン氏は言った。「でもこの小さな古い町は、うちとけて親しくなる時にはとことん居心地のいい場所になります。そうだ、ちょっとばかり公園を散歩するというのはコンウェイさん、どうでしょう、あなたの憂鬱な気分をいくらか追いはらえると思いませんか?もしよろしければ僕と…」
「ありがとうございます、ドノヴァンさん。喜んでお誘いをお受けします、心が悲しみでいっぱいの人間がご一緒してもよろしいのでしたら」
開け放たれた門を通り、古い、ダウンタウンにある、昔お歴々がそぞろ歩いた公園を二人はぶらつき、静かなベンチを見つけた。
若者の悲嘆と老人のそれとの間には、このような違いがある。若者の重荷は他人と分かちあえばその分軽くなるが、老人の場合、与えても与えても悲しみは同じだけ残るのである。
「彼は私の婚約者でした」一時間がたとうという頃、コンウェイ嬢は打ちあけた。「春には結婚することになっていたんです。嘘をついていると思わないでほしいのですが、ドノヴァンさん、彼は本物の伯爵だったんです。イタリアに領地と城を持っていました。フェルナンド・マツィーニ伯爵という名前でした。彼より気品がある人間を私は見たことがありません。パパはもちろん反対でした。そこで一度駆け落ちしたんですが、追いつかれて連れ戻されてしまいました。私はパパとフェルナンドは決闘するに違いないと思いました。パパはポキプシーで乗り物貸し業をやっているんです」
「とうとうパパは折れて、来春に結婚してもいいと言ってくれました。フェルナンドは彼の称号と財産の証明を見せると、城の改築のためにイタリアに帰って行きました。パパはとてもプライドが高くて、フェルナンドが私に数千ドルを嫁入り道具のためにくれようとした時には、彼のことをひどく罵りました。パパは指輪やどんな贈り物も私に受けとらせなかったんです。フェルナンドが船で発った後、私はこの街に来てキャンディー屋のレジの仕事を見つけました」
「三日前、イタリアからの手紙がポキプシーから転送されてきました。フェルナンドがゴンドラの事故で亡くなったという知らせでした」
「私はそういうわけで喪服を着ているんです、私の心は、ドノヴァンさん、永遠に彼の墓の中にとどまり続けるでしょう。私と一緒にいてもつまらないでしょうね、ドノヴァンさん、でも私は誰にも興味が持てないんです。愉快な気分やあなたを笑わせ楽しませてくれるご友人から、あなたを遠ざけておくわけにはいきません。もう下宿に戻りたいと思われているのではないですか?」
さてお嬢さんがた、もし若い男がツルハシとシャベルを持ってかき分け進むところを見たければ、彼にこう言いさえすればいいのです、自分の心は誰か他の男の墓に埋まっていると。若い男はみな生まれながらの墓荒らしなのです。未亡人なら誰でもいいので尋ねてみてごらんなさい、男たちは必ずなんらかの行動をとるはずですよ、クレープ・デ・シンを着て涙に濡れている天使たちに、なくなってしまった心を取り戻してやろうと。死んでしまった男は生きている男には敵わないのです、どうあっても。
「本当にお気の毒です」ドノヴァン氏は優しい声で言った。「いいえ、まだ下宿には戻らずここにいましょう。それにこの街に友達がいないなんて言わないでください、コンウェイさん。僕は心底お気の毒に思っています。あなたに僕のことを友達だと思ってもらいたいですし、本当にお気の毒に思っているんですよ」
「ロケットの中に彼の写真があります」コンウェイ嬢はハンカチで涙をぬぐうと言った。「今まで誰にも見せたことがないんですが、あなたにはお見せします、ドノヴァンさん、だって私あなたのこと本当の友達だと信じていますから」
ドノヴァン氏は長い間、とても興味深げにコンウェイ嬢が開いて見せたロケットの写真に見入っていた。マツィーニ伯爵の顔は注目に値するものだった。ひげは生やしておらず、知的で晴れやかな、ほとんど美男子といっていい顔――強く快活で、仲間内では指導者の立場にあるような男の顔であった。
「これより大きくて額縁に入った写真が、私の部屋にあります」コンウェイ嬢が言った。「下宿に戻ったらお見せします。フェルナンドを思い出すよすがとして私が持っているのはそれで全部です。でもフェルナンドはいつだって私の心の中にいるんです、確かに」
ある巧妙さを要する課題にドノヴァン氏は直面した。コンウェイ嬢の心から不運な伯爵を追いだし、彼に取ってかわるというものである。彼女を敬愛する心がドノヴァン氏を実行に踏みきらせた。けれどその重大な企ては、彼にとって負担ではなさそうだった。親身だが陽気な友人を彼は努めて演じた。そして彼は非常にうまくそれをやってのけたので、それから三十分の間、二人は二皿のアイスクリーム越しにしんみりと語らった。コンウェイ嬢の大きな灰色の瞳は相変わらず悲しみをたたえてはいたが。
その晩下宿の玄関ホールで別れる前に、彼女は階段をかけ上がると、白いシルクのスカーフで大事そうに包まれた額縁入りの写真を持って下りてきた。ドノヴァン氏は謎めいた目でそれをながめた。
「彼はこれをイタリアに発つ日の夜にくれました」コンウェイ嬢が言った。「この写真からロケットに入れる写真をつくったんです」
「立派な男性ですね」ドノヴァン氏は心から言った。「もし都合がよろしければコンウェイさん、来週の日曜日の午後にコニ―アイランドに僕と一緒に行っていただけると嬉しいのですが」
一ヶ月後、二人は婚約したことをスコット夫人と他の下宿人たちに告げた。コンウェイ嬢は相変わらず喪服を着続けていた。
それから一週間後、二人はダウンタウンにある公園の例のベンチに座っていた。ひらひら舞う落ち葉によって、二人の姿は月明かりの中で、ほの暗い映画のワンシーンのようになっていた。しかしドノヴァン氏は名状しがたい陰鬱さを一日中身にまとっていた。彼があまりにも黙りこくっていたので、恋する唇は恋する心が投げかける疑問をもはや言葉にせずにはいられなかった。
「いったいどうしたっていうの、アンディ、今夜のあなたはずっと思いつめたみたいで不機嫌そうだわ」
「なんでもないよ、マギー」
「私にはお見とおしよ。あなたが今までこんな風になったことなんてなかったわ。何事なの?」
「本当になんでもないんだ、マギー」
「いいえ、なんでもないことないわ。私は知りたいのよ。他の女の子のことを考えているんでしょう。その子に乗りかえたいならそうすればいいんだわ。お願いだから腕を離して」
「分かった、言うよ」アンディは賢明に答えた。「でもたぶん君にはちゃんと分かってもらえないと思うけど。マイク・サリヴァンという名前を聞いたことがあるかい?“ビッグ・マイク”サリヴァンって皆呼んでる」
「いいえ、ないわ」マギーが言った。「そんな名前聞きたくないわ、あなたがこんな風になった原因なら。誰なの?」
「彼はニューヨークで一番の大物さ」アンディの声には讃嘆の念がこもっていた。「相手がタマニー派の政治家だろうが政界の古株だろうが、彼はほとんどなんでも自分の望み通りにできるんだ。背は一マイルもあり、横幅はイーストリバーと同じくらいある。もし君がビッグ・マイクに対して異議を唱えれば、ものの二秒の間に百万人の男に鎖骨を踏みつぶされるだろう。彼が以前古巣にちょっと顔を出した時なんか、そこで威張り散らしていた連中はウサギのように穴に隠れてしまったよ」
「それでね、ビッグ・マイクはぼくの友人なんだ。僕の力なんてせいぜいトランプカードで最弱の“2”くらいのものだけど、マイクは小者や貧乏人とも大物に対するのと同じように仲良くしてくれるのさ。今日バワリーで彼に会ったんだけど、彼がどうしたと思う?僕の方へ近づいてきて握手をしてくれたんだよ。「アンディ」と彼は言った。「君には一目置いているんだ。領分ではなかなかいい仕事をしてくれているじゃないか、俺も鼻が高いよ。君は何が飲みたい?」マイクは葉巻を吸い、僕はハイボールを飲んだ。彼に二週間後に結婚する予定だと話した。「アンディ」と彼は言った。「招待状を送ってくれ、そうしたら覚えておくから。俺も式に出てやるよ」そう言ったのさ。ビッグ・マイクはいつだって言ったことは必ず実行するんだ」
「君には分からないだろうが、マギー、ビッグ・マイクを結婚式に呼べるなら僕は片腕を切り落としたかもしれない。僕の人生で一番名誉な日になるだろう。彼が結婚式に来れば、その男は花嫁だけじゃなくて約束された未来も手に入れることになるんだ。今夜僕が不機嫌そうに見えるのはそういうわけなのさ」
「それならご招待すればいいじゃない、そんなにありがたい方なんだったら」マギーは屈託なく言った。
「そうできない理由があるんだよ」アンディは悲しそうに言った。「彼が結婚式に来ちゃいけないわけがあるんだ。それが何かは聞かないでくれ、君には教えられないんだ」
「あら、私は気にしないわ」マギーが言った。「当然政治上の理由でしょう?でもあなたが私にほほ笑んでくれない理由にはならないわ」
「マギー」アンディはすぐに言った。「君は僕のことを愛しているかい?君の――マツィーニ伯爵を愛していたのと同じくらいに」彼は長い間待ったがマギーは答えなかった。すると突然彼女は彼の肩にもたれかかって泣きはじめた――体を震わせながら泣きむせび、彼の腕を強くつかんで、涙でクレープ・デ・シンを濡らした。
「おいおいおい!」アンディは自分の悩みごとをわきに置いて彼女をなだめた。「どうしたっていうんだ、一体?」
「アンディ」マギーはしゃくりあげた。「私、あなたに嘘をついていたの。だからもう結婚なんてしてくれないでしょうし、愛してもくれなくなるんだわ。でも本当のことを言わなくちゃね。アンディ、伯爵の話は全くの嘘っぱちなの。生まれてからずっと私に恋人がいたことなんてなかったわ。でも他の女の子たちにはいて、皆その人の話をするでしょう、そうすると男の人はますますそんな子たちに惹かれていくように見えたの。アンディ、私黒を着ると見映えがするの…知ってるわよね。だから写真屋さんに行ってあの写真を買って、小さい方はロケットに入れる用に作ってもらって、それから伯爵の話をでっちあげて、彼が死んでしまったことにしたわ、そうすれば黒い服を着られるもの。嘘つきを愛せる人なんていないわ、私は振られるんでしょうね、アンディ、私恥ずかしくて死んでしまいたい。ああ、他に好きな人なんていなかったのよ、あなた以外には…これで全部よ」
しかし押しやられるかわりにマギーはアンディの腕に一層しっかりと抱きしめられていることに気づいた。顔をあげると彼の顔は晴れやかで、にっこりと笑っていた。
「私を…私を許してくれるの、アンディ?」
「もちろん」アンディは言った。「そんなの全然かまわないさ。伯爵には墓地へお引きとり願おう。君は問題を全て解決してくれたよ、マギー。結婚式までには打ちあけてくれるんじゃないかと思ってた。悪い娘(こ)め!」
「アンディ」と幾分はにかんだようにほほ笑みながら、許されたことがすっかり飲みこめた後にマギーは言った。
「伯爵の話を本当に全部信じていたの?」
「うーん、あんまり」アンディは葉巻のケースに手を伸ばしながら言った。「だって君のロケットの中に入っていた写真は、ビッグ・マイク・サリヴァンの写真だったからね」