戸山翻訳農場

作業時間

月曜 14:45~18:00

木曜 16:30~18:00

金曜 18:00〜21:30?

ブログ



2013年

7月

07日

寺山修司とO・ヘンリー(続き)

「釧路の北海岸。荒涼と海鳴りが轟いている。その海鳴りの底から瞑想に耽るように、ギターの曲「白夜」が聞えてくる」。寺山修司の戯曲、「白夜」はこんな風な書き出しからはじまる。正直に告白すると、僕はこの「白夜」を読み始めた時点では、この戯曲がO・ヘンリーの「すべて備えつけられた部屋」から着想を得た件の戯曲だということを、すっかり失念してしまっていた。物語の舞台は釧路の安ホテルで、主人公の名前は灰上猛夫。ホテルは崖の上にあり、周囲では海猫が、悲しげな鳴き声をあげている。閉じられた空間に「非日常」を運んでくる旅の者、怪しげな旅館に、怪しげな登場人物たち、そして匂い立つ土俗の香り。おお、まさしく寺山修司! 寺山修司といえば、やっぱりこうじゃなくっちゃ。と、テキストから立ちのぼる寺山臭を、ぞんぶんに堪能しながら、ページを繰るうちに、ふとあることに思いあたった。あれ、この話、前にどこかで読んだことがあるぞ。その頼りない既視感は、猛夫が宿の女主人に、久方弓子という女性について尋ねている箇所で確信に変わった。

 

猛夫の声:「さあねえ、おぼえていませんねえ」か。どこへ行っても答えは一つだ。誰も教えてくれない。この五年間……百余りの旅館をまわったのに、どこだって答えは同じだった。ああ。

 

 五カ月間(元ネタとなったO・ヘンリーの作品)と五年間という違いはあるけれども、この台詞回し、我々が一年前に翻訳した、あの「すべて備えつけられた部屋」の主人公の語り口と全く同じではないか。そういえば、宿の女主人が建物について説明した際の、部屋の中にガスがあって、トイレは廊下のつきあたりにあるという台詞も、O・ヘンリーのそれと同じだし、猛夫が案内される部屋が三階の一室という点も、一致している。なるほど、これが件の戯曲か、と、ここにきてようやく、僕はこれこそが、「すべて備えつけられた部屋」を原案にした寺山の戯曲であることを、了解したのだった。

 その事を念頭に置いて、テキストを読みすすめていくと、この「白夜」という戯曲が、物語の筋や運びはもちろん、比喩や台詞回しといった細かな表現に関する部分まで、O・ヘンリーの「すべて備えつけられた部屋」から多くを借りてきていることが分かった。特に驚いたのが、猛夫が弓子の痕跡を求めて、部屋の中をくまなく捜索する場面だ。

 

女中、押し入れの下の棚を拭きはじめる。すると、なかの片隅に、泊り客の捨てていった古靴や蝙蝠傘が置いてある。中に小さな風呂敷包もあり、穴のあいた靴下もある。(すべてはまるで漂流物のように身を寄せあっている)

 

 部屋を借りては、すぐに部屋を去り、また別の部屋を借りる。O・ヘンリーは、「すべて備えつけられた部屋」の中で、当時のニューヨークで浮草同然の生活を送るそのような人々を、航海者という比喩でもって表現し、彼らが一時の間、体を休める部屋を小島、そしてその部屋に彼らが遺していったものを漂流物に例えた。作品の翻訳に取り組んでいた我々は、O・ヘンリーの、その見事な比喩に感嘆したものだが、どうやらそれは、寺山も同じだったようである。この漂流物という比喩を、自身の作品にもそのまま登場させている。さらに物語は、こんな風に続く。

 

  猛夫、その風呂敷包を手にとり、顔をおしつけてそっと匂いを嗅ぐ。それはまだ、確かめるというよりは探るような感じだが……しかし、ながい間描きつづけたある輪郭に、にわかに血の熱みが通いだした……という喜びに充ちている。

 

  猛夫:この風呂敷! この匂い!

  これは間違いない、弓子はきっと、最近この部屋に泊ったのだ。

 

  猛夫、ベッドの陰になっているブザーを押す。

  それから、ベッドの上に風呂敷包みの中のものを一つずつひろげ始める。

  それらは全て、無用のものばかりだ。口紅のケース、ヘアピンが二、三、質   札、手鏡、ハンカチ……もう間違いはない。

 

 O・ヘンリーの「すべて備えつけられた部屋」において、主人公は、かつて恋人がその部屋に泊まっていたという物的証拠を発見することはできないが、寺山の主人公はそれを発見している。しかし、その確信、つまり恋人がこの部屋に泊まっていたという確信が、いずれの作品においても、匂いによってもたらされていることに注目したい。目で見ることはできないが、確実にその場所に‘匂い’としてある存在。実体はないはずなのに、温もりや声を備え、官能的に視覚以外の全ての感覚を通して、迫ってくる存在。実際に、「すべて備えつけられた部屋」を読んでいただければ、その存在を‘匂い’に仮託して描くという演出が、どれほど効果的なものになっているか分かっていただけると思うが、もちろん寺山も、その‘匂い’による演出を見逃すことなく、自作に取り入れている。

もう一つ見ていただきたいのが、「白夜」の最後の場面だ。

 

 女主人:ここで、納棺したのが丁度一週間前。そう、あの晩も隣の部屋ではパーティをやっていましたよ。

 やっぱり月があかるくて、昼なのか夜なのか、わからないような天気でしたよ。

 かわいそうに、あの女の人も、ガス自殺をするにしては、なかなかきれいな女の人だったけれどねえ。

 名前は何ていいましたっけね?

 老人:久方弓子だよ。

 

 暗いベッドの上にすっかり寝落ちしてしまった猛夫。

 その顔は、心なしか微笑しているように見える。

 ギターの曲「白夜」がしだいに高くなってきて――

 

  幕

 

 もはや説明の必要もないと思う。寺山自身、この作品の発想をO・ヘンリーの「家具つきの貸間」(寺山が読んだ訳は、このタイトルだったのだろう)から得たと語っているが、両者の作品の類似は、もはや「発想を得た」という言葉では、片付けられないくらいに多い。もちろんこのことが、寺山修司という芸術家の評価に、少しの傷をもつけないことは明らかだ。実際に「白夜」を読むと、O・ヘンリーから借りてきたアメリカ的要素と、釧路という土地に染みついた土俗的な要素が、まさに「日本の古いお堂のなかにキリスト像を見つける」かの如きバランスで上手くブレンドされていて、寺山節としか言いようのない作品に仕上がっていることが分かる。

 O・ヘンリーという天才と寺山修司という天才。海を隔てた二人の才能が出あうことによって、結晶した「白夜」という作品。まだ、未見、あるいは未読という方は、この機会にぜひ、目を通してみてください。もちろんその際には、「すべて備えつけられた部屋」を再読することも、お忘れなく。(和田惣也)