戸山翻訳農場

作業時間

月曜 14:45~18:00

木曜 16:30~18:00

金曜 18:00〜21:30?

ブログ



あさましい恋人                      訳:森由貴

 3,000人の女性店員がビッゲスト百貨店にはいた。メイシーもその1人だ。齢18、紳士用手袋売り場の売り子をしている。ここでメイシーは2種類の人間が存在することを知った――自分の手袋を買う紳士と、哀れな紳士のために手袋を買ってあげる婦人だ。そうした人間というものの理解に加えて、メイシーは他の知識も持っていた。2,999人の女性店員と知識を共有して、それを頭にこっそり用心深く、マルタ猫のようにしまっていたのだ。おそらく創造神ネイチャーが、賢い相談相手がいないのを見越して、ずるがしこさをほんのちょっと美しさに混ぜてあげたのだろう。狡猾さでは他に並ぶもののいない銀キツネに美しい毛皮を授けたように。

 そう、メイシーは美しかった。深いブロンドの髪をして、穏やかな物腰は家でバターケーキを作る女性を思わせた。メイシーはビッゲスト百貨店でカウンターの奥に立っていた。巻尺の上に手を乗せて手袋の大きさを測ってもらう時は、見る人に青春の女神へーベーを思わせた。もう一度目をやれば、知恵の女神ミネルヴァのような瞳をしていると人は驚嘆するだろう。

 フロアマネージャーが見ていない隙に、メイシーは砂糖菓子のトゥッティ・フルッティを口に入れた。マネージャーが見ている時には顔を上げ、雲でも見つめるように、うっとりと笑みを浮かべるフリをした。

 これがショップガールのほほ笑みというものだ。避けることをお勧めしたい、もし君にあまり動じない心、アメ、あのキューピッドのいたずらに対する耐性があれば別だが。この笑顔はメイシーの休憩時間のものであって営業用のものではなかった。しかしフロアマネージャーはそれを自分用だと受けとった。彼は百貨店における強欲なシャイロックなのだ。なにかを嗅ぎまわる時、その鼻筋は有料の橋となる。いやらしい目か「まぬけ」とでも言うような目でしか美しい女性を見ない。もちろん、全てのフロアマネージャーがこんな風ではない。数日前も新聞に、80歳を超えるマネージャーの記事が出ていたではないか。

 ある日、アービング・カーターという、絵描きで、資産家で、旅人で、詩人で、車所有者である男が、ふっと、このビッゲスト百貨店に入ってきた。彼のために付け加えておくと、好きで来たわけではない。子としての義務が、彼の首根っこを引っつかんで店に放り込んだのだ。一方でカーターの母はうっとりとブロンズやテラコッタの銅像と戯れていた。

 カーターはぶらぶらと手袋売り場へむかった。浮いた時間をそこで始末するためだ。手袋が欲しいというのは本当だった。着けてくるのを忘れてしまった。しかしそんな弁解など必要なかった、なぜなら手袋売り場の恋の戯れを知らなかったのだから。

 カーターは運命に近づいてとまどった。突然、キューピッドの無邪気ないたずらに気がついたのだ。

 3人か4人の安っぽい、わざとらしい身なりの男たちが、カウンターに寄りかかり、手袋を仲立ちにしていちゃいちゃと取っ組み合いをしていた。くすくす笑いの女性店員が明るい介添人役を務め、きゃあきゃあと艶めかしい楽器を演奏していた。カーターは引きかえしたかったが、もう手遅れだった。メイシーがカウンターの後ろからきょとんと見つめてくる。瞳は冷たく、美しく、熱をもった青で、さながら南の波間を漂う氷山を照らす夏の太陽だった。

 そしてアービング・カーターは、絵描きで、資産家で、その他諸々なこの紳士は、パッとした赤みを上品な青白い顔に浮かべた。しかしそれは羞恥からではない。知性に由来するものだった。今自分は、量産型の若者がくすくす笑いの女性をカウンターで口説いているところに出くわしたのだ。オーク製の待ち合わせ場所に場末のキューピッドが集まって、お気に入りの手袋販売員に熱をあげている。もはやカーターはビルやジャックやミッキーといった月並の男と変わらない。その時、急におおらかな気持ちになって、さらに激しい勇気で今までの貴族的教養をさげすんだ。なんの躊躇もなく、この完成された創造物である彼女を手中に収めようと思った。

 手袋の支払いも包装も済んだが、カーターはぐずぐずと居残っていた。メイシーのうす紅色の口の端に浮かぶえくぼが深まった。紳士はみんな、手袋を買った後こうして居残るのだ。メイシーは腕を曲げ、プシュケーのように美しいそれをシャツ袖からのぞかせた。ひじを陳列棚の端に乗せる。

 カーターは生まれてこのかた、完全な主導権を握っていない場面には遭遇したことがなかった。しかし今やビルやジャックやミッキーといった男たちよりも無様だ。この美しい女性と交際する手がかりがまるでつかめない。懸命にショップガールの性質や特徴を思いだそうとした。読んだり聞いたりして得た知識だ。頭に浮かんだのは、彼女たちは時にきちんとした紹介の手続きにこだわらないという考えだった。心臓が大きく脈打つ。この可愛らしい汚れなき創造物へ、しきたりに従わないデートを申し込むのだ。しかしこの激情がカーターに勇気を与えた。

 親しげで当たり障りのない世間話をした後で、カーターは名刺をカウンターに置いた。

「失礼をお許しください」カーターは言う。「ずうずうしいかもしれませんが、心から、あなたともう一度お会いする喜びを得たいのです。ここに私の名前があります。最大の配慮であなたのお友――お知り合いになりたいとお願いしているのです。その栄誉にはあずかれないのでしょうか?」

 メイシーは男というものを知っていた――特に手袋を買いにくるような男性のことは。ためらいもなくカーターを見つめる瞳は率直で、ほほ笑みが映っていた。メイシーが口を開く。

「もちろん。あなた、いい人そうだもの。でもいつもだったら知らない殿方とはお出かけしないのよ。淑女の行動じゃないもの。いつがよろしいの?」

「できるだけ早く」カーターが言った。「もし家に招いていただけるというのなら――」

 メイシーは歌うように笑った。「まあ、やだ、だめよ!」きっぱり言う。「私たちの住む部屋を見るなんて! 3部屋に5人が住んでいるのよ。男友だちをつれこんだら母が何と言うかしら!」

「だったら、どこでもいいです」カーターは夢中で言った。「あなたに都合のいい場所で」

「そうね」メイシーはひらめきをうすもも色の顔に浮かべた。「木曜の夜がいいわ。8番街、48番通りの交差点で7時半に会いましょう。その近くに住んでいるの。でも11時には家に戻らなきゃいけないのよ。母が許してくれないもの」

 カーターは大喜びでデートの約束をすると、急いで母のもとへむかった。母もまた、ディアナ女神像を買ってもいいか聞こうと息子を探していた。

 小さい目と丸い鼻をした販売員が、メイシーの近くによってきた。親しげにふくみ笑いをする。

 「金持ちをひっかけたの、メイシー」なれなれしく声をかけてくる。

 「家に招いてくれるかって」メイシーは気取った雰囲気で、カーターの名刺を胸元のポケットにしまいこんだ。

 「家に!」小さい目が繰り返して、くすくす笑った。「ウォルドーフホテルで夕食しようとか、その後車でドライブしようとか言われたの?」

 「あら、やめてよ!」メイシーはうんざりと言った。「あなた、そんなセレブなことを言う人じゃなかったでしょう。セレブ脳になってしまったのは、消防車の運転手に中華屋さんへ連れていかれてからね。ううん、あの人はウォルドーフなんて言わなかったわ。でも名刺には5番街の住所とあるから、もし夕食に連れていってもらったとしても、命をかけてもいいわ、弁髪のウェイターなんていないところでしょうね」

 カーターはビッゲスト百貨店を母親と共に乗り心地のよい自動車で後にしながら、鈍い胸の痛みに唇をかんだ。恋に落ちたのは29年生きてきて初めてだった。恋の相手はいとも簡単に通りの角で会う約束をしてくれたが、望みの第一歩であっても、一抹の不安が彼を苦しめた。

 カーターはショップガールというものを知らなかった。彼女らの家はほとんど家と呼べるようなものでなく、小さい部屋や家に親類が床も見えないほどに暮らしているのだ。通りの角が居間で、公園が客間、大通りが散歩する庭だった。しかし彼女らの大半が気高い女性であり、それはまさにタペストリーの飾られている部屋に暮らす貴族の奥方と同じであった。

 ある日の夕暮れ、初めて会った時から2週間後に、カーターとメイシーは腕を組んで小さな、薄暗い公園を歩いていた。2人は木の影になった、人目のつかないベンチを見つけて座った。

 初めて、カーターはおそるおそるメイシーに腕を回した。メイシーのブロンドがカーターの肩に落ちつく。

 「ああ!」メイシーは嬉しそうにため息をついた。「どうしてもっと前にこうしてくれなかったの?」

 「メイシー」カーターの声は熱心だった。「ご存知でしょう、僕はあなたを愛している。お願いです、僕と結婚してください。もう僕がどんな人間かわかったはずです、嘘はつきません。あなたを手に入れたい、もうあなた無しでは生きていけない。住む場所の違いなぞ気にしません」

 「なにが違うの?」メイシーは好奇心から聞いた。

 「ええ、なにも違いやしません」カーターは慌てて言った。「低俗な人間なら違うと思うでしょうが。僕はあなたに豪華な生活をさせてあげられます。社会的立場は当然高いし、資産だってたんまりあります」

 「みんなそう言うわ」メイシーは答えた。「全部冗談なんでしょう。本当はデリカッセンとか競馬で生計を立てているんじゃないかしら。見た目より世間知らずじゃないのよ」

 「いくらでも証明してみせます」カーターはやさしく言った。「あなたと一緒になりたい、メイシー。一目会った時から好きでした」

 「みんな同じよ」メイシーは楽しそうに笑った。「同じことを聞かされたわ。三目会った時に好きになってくれる人がいたら、夢中になってしまうかも」

 「そんなこと言わないでください」カーターが懇願した。「聞いてください。目と目が合ったその時から、この世で女性はあなただけとなったのです」

 「まあ、おもしろい方!」メイシーはほほ笑んだ。「他に何人の女性がその言葉を聞いたのかしら?」

 しかしカーターは懸命に気持ちを説いた。そしてついに、かよわく移ろいやすいショップガールの小さな心に触れた。麗しい胸の奥底、どこかにある心に。彼の言葉が貫いた心は、その軽薄さを最も強固な鎧としていた。メイシーはカーターをじっと見つめた。すると冷たい頬に赤みがさした。震える、いたずらな蝶の羽が閉じて、愛の花に休もうとしていた。人生のほのかな光、手袋売り場のカウンターの外側に在る希望が芽生えはじめた。カーターはその変化を感じ、好機に手をのばした。

 「結婚してください、メイシー」やさしくささやいた。「そしてこの汚れた街から抜け出して、美しい場所へ行きましょう。職場も仕事も忘れ、人生は長い休暇となるのです。どこにつれていくかは決めてあるんです――何度も行った場所です。考えてみてください、永遠に夏が続く浜辺、波はいつだってすてきな海辺にうちよせ、人々は幸せで子どもみたいに自由なところ。僕らはそこで浜辺を渡り、好きなだけ滞在しましょう。遠く離れたその街には立派ですてきな城と美しい絵画や彫像のある塔が建っています。水路があって、僕たちはそこを移動するのに――」

 「知ってるわ」メイシーは突然たたずまいを直した。「ゴンドラに乗るのよ」

 「ええ」カーターがほほ笑む。

 「そうだと思った」メイシーが言った。

 「それから」カーターは続けた。「僕らは旅をして、見たいもの全てを見るんです。ヨーロッパを見た後はインドにある古代の街並みへ行き、象に乗ったりヒンドゥーやバラモンの美しいお寺を見たり、それから日本の庭園やラクダの隊列やペルシアのチャリオットレース。そうやって外国のおもしろい景色全てを見に行きましょう。気に入ってくれましたか、メイシー」

 メイシーは立ち上がった。

 「家へ帰る時間だわ」メイシーの声は冷たかった。「もう遅いもの」

 カーターはメイシーに合わせた。変わりやすい、種子のように風まかせなメイシーの性格を知っていたので、反抗は無意味だとわかっていた。しかしカーターは確かな幸福の勝利感を覚えていた。一瞬で、絹の糸というか細いものではあったが、奔放なプシュケーの心をつかまえた。一度メイシーは羽を閉じ、冷たい手はカーターに差し伸べられたのだ。

 ビッゲスト百貨店では、翌日、メイシーの友だち、ルルがカウンターの隅で待ち受けていた。

 「例のお友だちとはどうだったの?」ルルが聞く。

 「ああ、カレ?」メイシーは横側の巻き毛を軽くなでつけた。「なんでもなかったわ。ねえ、ルル、あいつ私になにしてくれって言ったと思う?」

 「舞台にでも上がれって?」ルルがすぐさま言う。

 「違うわ。それにしても安っぽい男よ。結婚して、あのちんけなコニーアイランドの遊園地へハネムーンに行こうなんて言ったのよ!」