戸山翻訳農場

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2013年

8月

05日

千ドル                        訳:林田ひかる

「千ドル」トルマン弁護士は、厳粛かつ簡潔に繰り返した。「こちらが、そのお金になります」

 ジリアン青年はあからさまにおもしろがっているような笑い声をたて、真新しい五十ドル札の束が入った薄い封筒を、指先でもてあそんだ。

 「こりゃ、どうしようもない金額だね」ジリアンは陽気に弁護士相手に語りはじめた。「一万ドルだったら、花火みたいにばんばん使っちまって、仲間をあっといわせるのに。いっそ五十ドルのほうが悩まなくてすんだよ」

 「伯父上の遺言が読み上げられたのは、お聞きになりましたね」トルマン氏は続けた。いかにも弁護士らしい、淡々とした口調だ。「詳細まできちんとお聞きになったかどうかは構いません。ですが、これだけはお忘れなきように。あなたには、この千ドルをどのように使ったか、私どもに報告する義務がございます。お金を使い終わったら、可及的速やかに。これは遺言で定められたことです。あなたが亡きジリアン様のご希望にこれだけは応じてくださるものと、信頼しております」

 「大丈夫だと思いますよ」青年はていねいに答えた。「そのせいで余計な金はかかるだろうけどね。秘書を雇わなきゃいけないだろうから。勘定はまるで苦手なんだ」

 ジリアンは会員になっているクラブに出かけた。彼がブライソンじいさんと呼んでいる男を探し出した。

 ブライソンじいさんは物静かな四十男で、世間から身を引いて暮らしていた。片隅で本を読んでいたが、ジリアンが近づいてくるのを見るや、ため息をつき、本を伏せて眼鏡をはずした。

 「ブライソンじいさん、起きてよ」ジリアンは声をかけた。「面白い話がある」

 「頼むから、ビリヤードの部屋にいるだれかにでも話してやりなさい」ブライソンじいさんは答えた。「知ってるだろう、私がどんなにお前さんの話を嫌いかは」

 「今日のはいつもよりましだよ」ジリアンは煙草を巻きながら言った。「あんたに聞いてほしいんだ。ちょっと悲しすぎる、というか、おかしすぎて、ごろごろ転がるビリヤードの球には合わない。いま、死んだ伯父の法律屋の海賊どものところに行ってきたんだけどね、伯父が僕に遺したのは、なんと、千ドルだ。ねえ、千ドルでなにができるっていうの?」

 「へえ、そうか」ブライソンじいさんは言ったが、ミツバチが酢の瓶に示すのとおなじくらいの興味しかなさそうだった。「死んだセプティムス・ジリアンには五十万ドルくらいの財産はあると思っていたがね」

 「そうだよ」ジリアンはうれしそうに認めた。「それがお笑い草でさ。伯父は、船一杯の金貨をそっくりバイキンにくれてやったんだ。つまり、遺産の一部は新種の細菌を培養している男に、残りはその細菌をやっつける病院の建設費にあげちゃった。あとに残ったのはつまんない遺品が一つ二つ。執事と家政婦には紋章付きの指輪と十ドル。そして甥っ子には千ドルさ」

 「お前さんはいつもたっぷり金を持っていたな」ブライソンじいさんは言った。

 「どっさりね」ジリアンは言った。「伯父はまるで救いの神さまだったよ、小遣いについては」

 「ほかに相続人は?」ブライソンじいさんはたずねた。

 「だれも」ジリアンは煙草をくわえて顔をしかめ、長椅子の贅沢ななめし革をそわそわした様子で蹴った。「ミス・ヘイデンという、叔父が後見人になって家に住まわせていた子はいるけど。おとなしい子で――音楽が好きで――運悪く叔父の友だちになった誰かの娘だよ。言うのを忘れたけど、彼女もバカバカしい指輪と十ドルをもらった口さ。僕もそうだったらよかった。そしたら、ブリュットのシャンパンを二本開けて、ボーイに指輪をチップにやっちまえば、全部片付いた。そんなに偉そうにしてないで、バカにするみたいに見てないで、ブライソンじいさん――教えてよ、千ドルで何ができる?」

 ブライソンじいさんは眼鏡を拭いてニッコリした。ブライソンじいさんがニッコリしたときは、ことさら意地悪になるのをジリアンは知っていた。

 「千ドルってのは」ブライソンじいさんは話しはじめた。「大きいとも小さいとも言える額だな。楽しいマイホームを買って、ロックフェラーを笑いとばす奴もいるだろう。女房を南部に送って命拾いさせてやる奴もいるだろう。千ドルもあれば、百人の赤ん坊に新鮮なミルクを六、七、八月の暑い時分たっぷり買ってやれるから、五十人くらいの命は救えるだろうよ。厳重警備の怪しげな画廊で三十分くらいは賭けトランプで遊べるさ。将来有望な少年に教育を受けさせてもやることもできる。聞いた話だと、昨日、本物のコローの絵が競売にでてその額で落ちたらしいぞ。ニューハンプシャーの町へ引っ越せば、その金で悪くない暮らしを二年は続けられるだろう。マディソン・スクエア・ガーデンをそれで一晩借り切って聴衆に演説をぶってやることもできる、聞きたがる奴がいればの話だがな。お題は『推定相続人の身分の不確実性』ってところか」

 「あんたもきっと人に好かれるんだろうけどね、ブライソンじいさん」ジリアンは気を悪くした様子もなく言った。「そんなに御託をならべるんでなきゃ。僕が訊いたのは、この僕に千ドルで何ができるのかってことだよ」   

 「お前さんに?」ブライソンは言い、穏やかにハハハと笑った。「そりゃあ、ボビー・ジリアン君、ふさわしいのは一つしかないよ。ミス・ロッタ・ローリエにその金でダイヤのペンダントを買ってやり、それから西部のアイダホにでも身を寄せて農場の厄介になればいい。羊の農場がいいな、私は羊が大嫌いだから」

 「それはどうも」ジリアンは言って立ち上がった。「頼りになると思ってた、ブライソンじいさん。まさに妙案だよ。この金、一度にチャラにしたかったんだ、使い道の報告をしなきゃいけないんでさ。いちいち細目を書くのなんてやりたくないから」

 ジリアンは電話で馬車を呼び、御者に命じた。

 「コロンバイン・シアターの楽屋通用口」

 ミス・ロッタ・ローリエが、満員のマチネーの出番の声にこたえる準備もほぼ整い、パウダーパフで顔を繕っていると、着付け係がジリアンの名を告げた。

 「お通しして」とミス・ローリエは言った。「あら、どうしたの、ボビー。あと二分で出番だけど」

 「きみの右耳、もうちょっとウサギの足みたいにしたら」とジリアンは言い、じろじろ見た。「うん、パウダーはそのかんじの方がいい。二分もとらせないよ。きみ、ペンダントなんかで、ちょっと気になっている品はない? 一にゼロが三つ付くくらいのやつならだいじょうぶなんだけど」

 「あら、嬉しいこと言うのね」ミス・ローリエは歌うように言った。「右の手袋は、アダムズ? ねえ、ボビー、あなた見なかった、デラ・ステイシーがこの間の晩につけていたネックレス? 二千二百ドル、ティファニーのよ。でも、もちろん――ねえ、アダムズ、サッシュはもう少し左に寄せて」

 「ミス・ローリエ、開幕のコーラスです!」呼び出し係が外から声をかけてきた。

 ジリアンは劇場からゆっくりと、待たせている馬車のほうへ行った。

 「ねえ、きみなら、もしも千ドルあったら、どう使う?」御者にたずねた。

 「酒場を開きますね」御者は即座にしゃがれ声で答えた。「いい場所があります、あそこなら両手に金をわしづかみだ。角っこにある、四階建ての煉瓦造りでしてね。そうだ、こうしよう。二階は――支那料理とチャプスイの店。三階は――ネイルサロンと伝道所にして、四階は――ビリヤード場。もし旦那が資金を出してくれるってなら―」

 「あー、いや、いや」ジリアンは言った。「ちょっと聞いてみただけだよ。一時間、貸し切りにしてくれないか。停めろと言うまで走ってくれ」

 ブロードウェイを八ブロック下ったところで、ジリアンはステッキで運転席との間の小窓をつついて停まらせて、降りた。ひとりの盲人が歩道で高い椅子にすわって鉛筆を売っていたのだ。ジリアンは歩いていって、前に立った。

 「すみません」ジリアンは声をかけた。「よろしければ、教えてもらえませんか、もし千ドルあったら、なにをします?」

 「あんた、いまここに来た馬車から降りてきたね、そうだろう?」盲人はたずねた。

 「ええ」と、ジリアン。

 「きっといいご身分の方なんでしょうな」鉛筆売りは言った。「昼間から馬車を乗りまわすくらいだから。まあ、よければ、これを見てくださいな」

 盲人は、小さな帳面をコートのポケットから引っ張り出して、ずいと差し出した。ジリアンが開いてみると、銀行の預金通帳だった。盲人の預金残高は一千七百八十五ドルとあった。

 ジリアンは通帳を返し、馬車に乗った。

 「うっかりしていた」ジリアンは言った。「トルマン&シャープ法律事務所に向かってくれ。場所はブロードウェイの――

 トルマン弁護士は冷ややかで訝しげな目で金縁の眼鏡ごしにジリアンを見やった。

 「すみませんがね」ジリアンは機嫌良く声をかけた。「ひとつ訊いてもいいですか? 失礼にはならないと思うんだけど。ミス・ヘイデンは、指輪と十ドルのほかにもなにかを遺書ではもらうことになっています?」

 「なにも」トルマン氏は答えた。

 「どうもありがとう」ジリアンは言うと、馬車に乗りこんだ。御者に死んだ伯父の家の住所を告げた。

 ミス・ヘイデンは書斎で手紙を書いていた。小柄なすらりとした体に喪服をまとっている。しかしなにより目を奪われるのはその瞳だろう。そこに、世の中は意外なことの連続だとでも言いたげな表情をただよわせて、ジリアンがふらりと入ってきた。

 「いまトルマンさんのところに行ってきたんだけど」ジリアンは話しはじめた。「書類を見直していたら、見つけたらしいんだ、そのお」――ジリアンは頭の中で法律用語を思い出そうとしていた――「改正案というか追伸というか、とにかく遺言関係のなにかを見つけた。なんだか、あの伯父さん、最後に考え直したみたいで、きみに千ドル遺すことにしていた。それで、どうせ通りがかりだろうからお金を持っていってくれって、トルマンさんに頼まれた。はい、これ。ちゃんとあるか、数えたほうがいいよ」

 ミス・ヘイデンは顔色を失った。「まあ!」と言い、もう一度「まあ!」

 ジリアンは彼女に半分ほど背を向け、窓の外を見た。

 「たぶん、もちろん」と彼は言った、低い声で。「わかっているよね、僕がきみを好きだってこと」

 「ごめんなさい」ミス・ヘイデンは言って、自分のものになった金を受け取った。

 「だめ?」ジリアンは訊いた、口調はけっこう明るかった。

 「ごめんなさい」彼女はもう一回言った。

 「メモしておきたいことがあるんだけど、いいかな?」ジリアンは言ってにっこり笑い、大きな書きもの机のまえにすわった。ミス・ヘイデンは紙とペンを渡し、自分の小机に戻った。

 ジリアンは、千ドルの使い道の報告を、つぎのようにしたためた。

 「一族の面汚したるロバート・ジリアンによって、千ドルは、天から授かりし永遠(とわ)の幸福の由縁たる、この世でもっとも善良にして魅力あふれる女性に支払われた」

 ジリアンはその文書を封筒に滑りこませると、一礼して、もと来た道を戻った。

 馬車はふたたびトルマン&シャープ法律事務所の前に停まった。

 「千ドル、使ったよ」ジリアンは元気よく言って、金縁眼鏡のトルマンを見た。「だから報告に来た、約束通り。なんだかだいぶ夏らしくなってきたね――そう思わない、トルマンさん?」ジリアンは白い封筒を弁護士の机に投げた。「メモが入っている、千ドルが消えた種明かしのね」

 封筒に触れもせず、トルマン氏はドアの方へ歩いていくと、パートナーのシャープ氏を呼んだ。二人はいっしょに洞窟のような巨大な金庫を探索した。ようやく掘り出した宝物のように持ってきたのは蝋で封印された大きな封筒だった。それを満身の力でこじ開けると、二人して、上等な頭を右に左に動かしながら、中身に目を通した。そしてトルマン氏が代表して話し始めた。

 「ジリアンさん、」あらたまった口調だった。「伯父上の遺言には補足書がございました。私どもに内密に預けられていたもので、遺贈された千ドルをどのように使ったかの詳細な報告をあなたからいただくまでは開けてはならない、と言われていました。あなたが条件を満たしてくれましたので、パートナーと私とでいまその補足書を読ませていただきました。難しい法律用語をならべてご理解を妨げたくはありませんので、要点をかいつまんでお話しします。

 「千ドルの使い道が報賞するに値するような性質のものであると判断された場合は、かなりの恩恵をあなたはうけることになります。シャープ氏と私にその判定は任されましたが、まちがいなく私たちはその大役を公正に――かつ寛大に果たさせていただく所存です。お断りしておきますが、私どもにはあなたにたいして非好意的な先入観はまったくありませんからね、ジリアンさん。では、補足書の中身に戻りましょう。くだんの千ドルの使い道が十分に思案された賢明なもので、自分本位のものでなかったなら、私どもの権限で、あなたに五万ドル相当の債券をお渡しすることになります。そのためにずっとそれは私どもの手元に置いてありました。しかし、もしも――クライアントのいまは亡きジリアン様がはっきり言い残しておられたように――そのお金を昔のように、まあ、ジリアン様のお言葉をお借りするなら――いかがわしいお仲間とつるんで不埒な遊興に使ってしまった場合は―――その五万ドルは、亡きジリアン様が後見人をつとめていらしたミリアム・ヘイデンに遅滞なく支払われることになっています。さて、ジリアンさん、シャープ氏と私とで千ドルの使い道の審査をさせていただきます。書面で提出されたようですね。私どもの判定を信頼していただきたいと思います」

 トルマン氏は封筒に手を伸ばした。ジリアンが間一髪の差でかすめ取った。ゆっくりとメモと封筒を引きちぎって、ポケットに入れた。

 「いいよ」ジリアンは言って、にっこりした。「こんなことであなたがたを煩わせたくない。どうせ、あなたがたには賭け事の明細なんかわかりっこないしね。千ドルは競馬ですったんだ。では、ごきげんよう、おふたりさん」

 法律屋のおふたりさんは顔を見合わせて世も末だとばかりに頭を振った。出ていったジリアンが廊下でエレベーターを待ちながらうれしそうに口笛を吹いているのが聞こえてきたからである。