戸山翻訳農場

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2013年

12月

31日

ハーレムの悲劇                   訳:田元明日菜

ハーレム。

フィンク夫人はアパートの一階下のキャシディ夫人の部屋に立ち寄っている。

 「見事なもんでしょ」とキャシディ夫人。

 自分の顔を誇らしげに、仲よしのフィンク夫人に見せた。片目はほとんど開いておらず、そのまわりには大きな、緑がかった紫色のあざがある。唇は切れて少し出血していて、首の両側には赤く指の跡。

 「うちの人はそんなこと考えつきもしないわ」とフィンク夫人は言った。うらやましさを隠している。

 「あたしは嫌だね」とキャシディ夫人は言い放った。「少なくとも週一で殴ってくれない旦那じゃなきゃ。思ってくれてるってそういうことでしょ。ほら! でも、前回ジャックがくれたのはなかなか自然治癒しないんだよね。まだ瞼の裏に星が散ってる。だけど、殴った後の何日かは街で一番優しい男になって埋め合わせてくれるんだ。この目だと、最低でも、劇場のチケットとシルクのブラウスくらいにはなるね」

 「私は信じていたいの」とフィンク夫人は言った。満足しているふりをしている。「うちのフィンクさんはすごく紳士な人だから私に手を上げたりしないんだって」

 「あら、勘弁してよ、マギー!」とキャシディ夫人は言った。けらけら笑いながら薬を塗っている。「嫉妬してるくせに。あんたのとこの旦那は、身体がカチカチでノロマだからパンチも出せないんだよ。家に帰ってきても、ただ座って、新聞に載ってるフィジカルカルチャーを実践してるだけ[i]——当たりじゃない?」

 「たしかに帰ってくると新聞をじっくり読んでるけど」フィンク夫人は認めて、頭を振った。「でも、気晴らしに私をボコボコには絶対しない。おかげで、スティーブ・オドネル [ii]みたいにならずにすむわ——ほんとに」

キャシディ夫人は、夫に守られた幸せな妻といった様子で満足げに高笑いした。そして、宝石を自慢するコルネリアさながら[iii]、キモノの襟を引き下げて披露したのは、もう一つの宝物のあざだった。栗色で、縁はオリーブとオレンジの色——ほとんど治りかけているが、いまなお愛しい思い出として残るあざだ。

フィンク夫人は降参した。よそよそしかった眼がゆるんで、うらやましそうな讃嘆の眼差しに変わった。彼女とキャシディ夫人は、お互い結婚する一年前まで、ダウンタウンの製函工場で仲のいい同僚だった。現在、マギー・フィンクとその夫は、メイム・キャシディとその夫が暮らすアパートメントの上の階に住んでいた。だから、彼女はメイムの前では気取ってはいられなかった。

 「血まみれにされて痛くないの?」フィンク夫人は興味津々訊いた。

 「痛いさ!」——キャシディ夫人はソプラノボイスで嬉しそうに叫んだ。「ほら、レンガ造りの家の下敷きになったことってある?——まあ、そんな感じだね——瓦礫から助け出された時みたいな気分だよ。ジャックの左パンチは、マチネのチケット二枚と、新品のオックスフォード靴になるからね——それにあの人の右パンチといったら!——そうだね、コニーアイランドへのお出かけ一回と、ライル糸で編んだ透かし織りの靴下六足くらいにはなるかな」

 「でも、どうしてあなたを殴ったりするの?」フィンク夫人は尋ねた。目がまんまるに開いている。

 「馬鹿だねぇ!」キャシディ夫人は言った。優しい口調になっていた。「だって、そりゃ酔っぱらってるからさ。たいていは土曜の夜」

 「でもあなたにどんな理由があるの?」真実の探究者は執拗だ。

 「だって、ジャックと結婚したじゃない? ジャックは酔っぱらって帰ってくる。するとあたしが家にいる。でしょ? 他に誰を殴るっていうんだい? 他の誰かを殴ってるとこを見てみたいものだよ! 時には夕食の準備ができてないからって時もあるし、理由なんてない時もある。ジャックからしたら理由なんて何でもいいんだ。彼はひたすら酒を飲み続けて、妻がいるって思い出したら帰ってきてあたしを殴る。土曜の夜は、角のとがった家具はどけておいて、殴られたときにぶつかって頭を切らないようにしてる。ブルブルするような左スイングがあるからね! 第一ラウンドでダウンをとられる時もあるけど、次の一週間を楽しく過ごしたいとか新しい服が欲しいって思うと、立ち上がってもっと罰をもらう。昨日の夜はそんな感じだった。この一カ月、あたしが黒のブラウスを欲しがってたのをジャックは知ってたけど、目の黒あざ一つじゃムリだと思ったんだ。そうだマギー、あの人が今夜ブラウスを買ってくる方にアイスクリームを賭けてもいいよ」

 フィンク夫人はすっかり考えこんでしまった。

 「うちのマートは」彼女は言った。「一度だって私を殴ったことない。あなたの言う通りよ、メイム。むすっとして家に帰ってきて一言も口をきかないの。どこかに連れて行ってくれたこともない。家じゃ銅像みたいにじっとしてるだけ。物を買ってくれても、あんなむっつり顔じゃ、ありがたくも何ともないわ」

 キャシディ夫人は友達に腕を回した。「あんたって可哀そう!」彼女は言った。「だけど皆がジャックみたいな旦那を持てるわけじゃない。旦那が皆ジャックみたいだったら、結婚に失敗なんてないよ。不満を抱いてる妻が多いってよく聞くけどさ——そういう女たちに必要なのは、週に一度、家に帰るとあばらを蹴ってくれて、仲直りのキスとチョコレートクリームで埋め合わせてくれる、そんな男だよ。そうすりゃ、そういう女たちもちょっとは人生を楽しめるのにさ。あたしが望むのは、酔ってるときには殴ってくれて、酔ってないときにはハグしてくれる、支配力のある男。そのどちらの気概もない奴には、近寄らないでほしいね!」

 フィンク夫人はため息をついた。

 不意に玄関で音が響きわたった。ドアが蹴飛ばされて吹っ飛び、キャシディ氏が現れた。腕に包みをいくつも抱えている。メイムは飛んでいき、彼の首に抱き付いた。あざのない方の目は愛で輝き、まるで、殴られて引っ張ってこられたマオリ人の娘が求婚者の小屋で意識を取り戻した時のような光を放っていた。

 「よお、帰ってきたぞ!」キャシディ氏は叫んだ。持っていた包みを放り投げて彼女を力強く抱き上げた。「バーナム・アンド・ベイリー・サーカスのチケットを手に入れたぞ。それからその包みのどれかにはシルクのブラウスが入ってる——おや、こんばんは、フィンクさん——来てたんだ。マートくんは元気?」

 「ええ、とても元気よ、ミスター・キャシディ——ありがとう」フィンク夫人は言った。「もう上へ行かなきゃ。マートがもうすぐ夕食に帰ってくるから。メイム、欲しいって言ってた型紙は明日持ってくるわね」

 フィンク夫人は、上の部屋に帰って、ちょっぴり泣いた。それは、意味もなく流れる涙で、女性だけが知っている涙、特別な理由もない不条理な涙、この世の嘆きのレパートリーの中でも、もっとも儚く、もっとも救いようがない涙だった。どうしてマーティンはわたしをぶたないのだろう? 彼だって、ジャック・キャシディに負けないくらい大きくて、頼もしいのに。妻のことなんか、気にかけてもいないのだろうか? 言い争いをしたことは一度もない。家に帰ってきても、ぐだぐだして、黙りこくって、むっつりして、だらけているだけ。立派に家族を養ってはいる、しかし、人生のスパイスに欠けている。

 フィンク夫人の夢の船は無風状態のなかで止まっていたのだ。彼女の船長は干しブドウ入りプディングとハンモックの間を行ったり来たりしているばかりなのだった。せめて、時には船を揺さぶったり、甲板を踏み鳴らしてくれたらいいのに! 船旅はもっと愉快なもので、心躍るような島々に寄港すると思っていたのに! しかし今はもう、例えを変えるなら、彼女はリングにタオルを投げ入れたくなっていた、疲れていた、人に見せられるようなかすり傷のひとつも負わされずにスパーリングのパートナーと生ぬるいラウンドをただただ繰り返してきたことに。一瞬、メイムが憎たらしくさえ思えた——メイムの、あの切り傷とあざが、癒しのプレゼントとキスが、好戦的で、野蛮で、愛に満ちたパートナーとの嵐の船旅が。

フィンク氏は七時に帰って来た。彼は爪の先まで家庭生活の呪いにかかっていた。居心地の良い我が家の玄関から中にはいると、もう歩こうとしなかった。まったく歩かなかった。路面電車に乗ってきた男、獲物を呑みこんだアナコンダ、倒れてそのままでいる樹木だった。

 「ご飯にする、マート?」フィンク夫人は尋ねた。押さえに押さえていた。

 「んあ、ん、あぁ」フィンク氏はうなった。

 夕食が済むと、彼は新聞を手にして読みだした。靴下だけになって腰かけた。

立ち上がれ、ダンテの才能を引き継ぐ者よ、そして、靴下だけの姿で座りこむ男が落ちるべき地獄の歌を聞かせてくれ! 耐え忍ぶ女たちよ、おまえたちは束縛や義務にとらわれ、シルク、編みこみ、コットン、レース、ウールの靴下を履いた者たちにずっと我慢してきた——この新しい地獄の歌こそふさわしくないか?

翌日はレイバー・デー(←九月の第一月曜日)だった。キャシディ氏とフィンク氏の仕事は終日休みだった。労働者は胸を張ってパレードに参加するか、さもなきゃ、気晴らしをして過ごす日だった。

フィンク夫人はキャシディ夫人の型紙を早くに持っていった。メイムは新しいシルクのブラウスを着ていた。あざのついた目でさえ、かすかに祝日の輝きを放っていた。ジャックの反省は実り多いものだったようで、公園にピクニックにピルスナービールという楽しい一日のプランが予定されていた。

上の階の部屋に戻ると、憤りの嫉妬が湧きあがって、フィンク夫人を襲った。ああ、幸せなメイム、あざをつけて、薬だってすぐにつけてもらっちゃって! だけど、幸せはメイムだけのものなの? マーティン・フィンクだって間違いなくジャック・キャシディと同じくらい素敵な男性なのに。その妻はこれからずっと殴られることも愛撫されることもないの? いきなり、見事な、息も止まるような考えがフィンク夫人の頭に浮かんだ。メイムに見せつけてやろう、拳を振りあげ、しかるのち優しくしてくれる男はジャックだけではないのだ、と。

休日はフィンク家にとっては名ばかりのものになりそうだった。台所に据え付けの洗濯用たらいは、夫人が昨晩から浸しておいた二週間分の洗濯物でいっぱいになっていた。フィンク氏は靴下姿で座って、新聞を読んでいた。こうしてレイバー・デーもたちまち過ぎ去っていきそうだった。

嫉妬がフィンク夫人の心のなかでうねりを上げ、それはどんどん高まっていって大胆な決意となった。夫が殴ってくれないのなら —— 男らしさ、男の特権、夫婦生活への関心を示してくれないのなら、それは夫の義務なのだと思い出させてやらねばなるまい。

 フィンク氏はパイプに火をつけ、靴下を履いたつま先で足首をのんびりとさすっていた。プディングに混ざりきれないスエットの塊のように結婚生活に安息していた。これが彼の平穏な極楽なのだった —— ゆったりと腰をおろして、新聞を通して世界を手中におさめた気になりながら、洗濯をする妻が泡を立てる音や、下げられた朝食とやがて運ばれてくる夕食の心地よい匂いに囲まれていることが。どんな考えも彼からは遠かったが、しかし、いちばん遠かったのは妻を殴るという考えだった。

 フィンク夫人はお湯を出して洗濯板を石鹸水に入れた。下の部屋からキャシディ夫人の楽しそうな笑い声がした。当てこすりのように聞こえた、殴られたことのない上の階の花嫁に向けられた、これ見よがしの幸せな声に。見てろよ、つぎはわたしの番だッ!

 とつぜん、鬼女の形相で、新聞を読む男に顔を向けた。

 「ぐうたらの怠け者!」彼女は叫んだ。「あんたみたいな気持ち悪い奴のために、どうして私が洗いものや雑用でこきつかわれなきゃいけないの? あんた、ほんとに人間? キッチンにいる犬っころじゃないの?」

 フィンク氏は新聞を落として、驚いて固まった。彼女は夫が殴ってくれないのではないかと心配になった——挑発が足りなかったのではないか、と。そこで、飛びかかっていくと、拳を握って激しく顔を殴りつけた。その瞬間、久しく感じていなかった愛のスリルを感じた。立ち上がるのよ、マーティン・フィンク、今こそ王者の座につきなさい! ああ、今こそあなたの拳の重さを感じさせて——あなたのいたわりを見せて——あなたのいたわりを見せて! 

 フィンク氏はすっくと立ち上がった——マギーはもう一方の手を大きくスイングしてもう一発、今度はあごを捕えた。彼女は目を閉じた。恐ろしくも幸せな瞬間だった。彼の一撃がきっと飛んで来るはずだ——心の中で夫の名前を呼んだ——身を乗り出して来るべき一撃に備えた。ほしい、ほしい。

 下では、キャシディ氏が恥じ入った後悔した面持ちで、メイムの目の周りにパウダーをつけ、お出かけの準備をしていた。上の階から女性の甲高い声がした、ぶつかり、つまづき、引きずり、椅子がひっくり返る音がした——紛れもない、家庭内紛争の音だった。

 「マートとマギー、けんかしてるのか?」とキャシディ氏が言った。「初めてだな。ちょっと上に行って仲裁が必要か見てこようか?」。

 キャシディ夫人の片目がダイヤモンドのようにキラッと輝いた。もう片方の目も光ったが、こっちはガラスの宝石程度だった。

 「ああああ」と彼女は言った、ソフトな、特に意味のない、女性ならではの絶叫的な声だった。「もしかして——もしかしたら! 待って、ジャック、あたしが見てくるよ」

 階段を駆け上がった。玄関に足を踏みこむと、キッチンのドアからフィンク夫人が勢いよく飛び出してきた。

 「ああ、マギー」キャシディ夫人は叫び、嬉しそうに囁いた。「彼、やったの? ああ、やったんだね?」

 フィンク夫人は仲良しのもとに駆け寄り、肩に顔をうずめて絶望したように泣きじゃくった。

 キャシディ夫人はマギーの顔を両手でつかんでそっと持ち上げた。涙に汚れて、赤らんだり青ざめたりしていたが、しかし、なめらかなピンクと白の、魅力的なそばかすだらけの顔には、フィンク氏の臆病な拳によるひっかき傷も、あざも、なにもなかった。

 「教えてよ、マギー」メイムは懇願した。「でなきゃ、中に入って何が起こったのか見てくるからね。いったいどうしたっていうんだい? 彼は殴ってきたの——何をしたの?」

 フィンク夫人はふたたび絶望したように友だちの胸に顔をうずめた。

 「お願いだから、そこのドアは開けないで、メイム」泣きじゃくっていた。「それから、誰にも言わないって約束して——一生の秘密よ。あの人——あの人はさわろうともしなかった、そして——あの人——ああ、なんてこと——あの人、洗濯をしてるの——洗濯をしてるのよ!」

 

 

 

 

 



[i] エクササイズのこと。健康に問題を抱えるひとが増えたことから、一八九九年、健康雑誌「フィジカル・カルチャー」が創刊され、誌名がフィットネス体操の代名詞となった。

[ii] オーストラリア出身のボクサー。一八九五年のヘビー級の世界チャンピオン試合でピーター・マハーに一ラウンドでノックアウトで負けた。

[iii] 紀元前二世紀のローマで政治家として活躍したグラックス兄弟の母、コルネリアのこと。知人に宝石を見せびらかされ「あなたも宝石を見せてほしい」とせがまれた時、二人の息子を呼んで「これが私の宝石です」と言った。

 

 

 

 

 

スティーブ・オドネル(http://www.cyberboxingzone.com/boxing/SteveO'Donnell.htm)
スティーブ・オドネル(http://www.cyberboxingzone.com/boxing/SteveO'Donnell.htm)