戸山翻訳農場

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2014年

2月

11日

ティルディの短いデビュー               訳:菅野楽章

 ボーグルズ・チョップハウス&ファミリーレストランを知らないとしたら、それは損である。というのも、あなたが幸運にも贅沢な食事をしている人であるなら、残りの半数の人々がどんなものを食らっているかに興味を持つべきだからだ。また、あなたがその残りの半数のひとりで、いつも伝票が死活問題になっているのだとしたら、ボーグルズは知っておいたほうがいいからだ。なにしろ、そこでは払っただけのものは得られるから――少なくとも量的には。

 ボーグルズは市民階級{傍点:市民階級}のハイウェイ、ブラウンとジョーンズとロビンソン{訳注1}が行く大通りとも言うべき、八番街にある。店内は、テーブルが二列で、一列が六卓だ。各テーブルには調味料立てがあり、香辛料や薬味の容器がのっている。コショウの容器からは、振ると、味がない憂鬱ななにかがもうもうと噴き出てくるかもしれないが、まるで火山灰だ。塩の容器からは、なにも期待できない。青白いカブから血のような赤い液体を絞りだすことができる人でも、ボーグルズの容器から塩を出すとなると、その異能もまず発揮できまい。また、すべてのテーブルに鎮座しているのはまがいもののありがたいソースで、「インドの貴族のレシピ直伝」とか謳われている。

 レジにすわっているのは店主のボーグルで、冷酷に、強欲に、時間をかけて、鬱屈した表情で、金を徴収している。爪楊枝の山のうしろで、釣り銭を用意し、伝票を整理し、ガマガエルのように、天気にかんする言葉を吐き出してくる。その気象学的主張には、うなずく程度にとどめ、下手に口は出さないほうがいい。ボーグルの友達ではないのだから。食べさせてもらっただけのつかのまの客で、つぎに会うのはせいぜい大天使ガブリエルが晩餐のラッパを吹くときだろう。ほれ、釣り銭をもらって、さっさと行け――なんなら悪魔のところへでも。そんなところがボーグルの気持ちだ。

 ボーグルズの客の要望にこたえるのは、ふたりのウェイトレスと「声」だった。ウェイトレスのひとりはアイリーンといった。背が高く、美しく、いきいきとして、感じがよく、軽口を叩くのにも長けていた。彼女の別名? ボーグルズでは別名など、フィンガーボウル同様、必要ない。

 もうひとりのウェイトレスはティルディといった。マティルダではだめかって? ここはどうか黙ってお認めいただきたい――ティルディ――ティルディだ。ティルディはずんぐりむっくりののっぺり顔で、それはもうしきりに、お客を喜ばせよう、喜ばせようとしていた。この最後のくだり、ぜひ心の中で一、二度復誦していただき、繰り返しになっているところを玩味してほしい。

 ボーグルズの「声」は姿を見せなかった。出どころは厨房で、独創性という点では輝きがなかった。野蛮人の「声」で、料理についてウェイトレスが発する叫びをただむなしく繰り返すばかりだった。

 アイリーンは美しかった、ともう一回聞かされるのはうんざりだろうか? でも、もしも彼女が数百ドルもする服を身にまとい、イースターのパレードにでも参加していたら、その姿を見た者はだれしもおのずとそう口にしていたろう。

 ボーグルズの客は彼女の虜だった。満席の六卓を同時に給仕することもあった。急ぎの客は、きびきびと動く優雅な姿をじっと見つめるという喜びだけで、いらいらした気持ちを抑えられた。食事が済んだ客は、彼女の笑顔に照らされていたいがために追加注文をした。そこでは誰もが――ほとんどが男だが――彼女に自分を印象づけようとしていた。

 アイリーンは一ダースの客と軽妙なやり取りを同時にすることができた。そして彼女の笑顔は、散弾銃から放たれる弾のごとく、放った数だけハートを撃ち抜いた。しかもそのあいだにも、驚くような芸当で注文に対応していた。ポーク・アンド・ビーンズ、ポットロースト、ハムやソーセージ添えのパンケーキ、量はさまざまの鉄板料理、鍋料理、単品、付け合わせ。こうした歓待と、戯れと、愉快なウィットのやりとりのおかげで、ボーグルズはほとんどサロンのようになっていて、アイリーンがレカミエ夫人{訳注2}だった。

 一見(いちげん)の客たちが魅惑的なアイリーンにうっとりしているとしたら、常連客たちは彼女の崇拝者だった。その多くは、たがいに激しいライバル関係にあった。その気になれば、アイリーンは毎晩でも婚約できたろう。少なくとも週に二回、だれかが彼女を劇場かダンスに連れていった。彼女とティルディが密かに「ブタ」と名付けていた肥った男は、トルコ石の指輪をプレゼントした。「新参者(フレッシー)」として知られる、鉄道会社の修理ワゴンに乗る男は、兄が九番街で輸送業務の契約を取り付けたらすぐにもプードルを贈る、と言っていた。いつもスペアリブとホウレン草を食べ、自分は株式仲買人だと言っている男は、一緒に「パルジファル{訳注3}」に行こうと誘った。

「パルジファルってどこなのか知らないんだけどね」アイリーンはティルディと相談しているときに言った。「でも、まずは結婚指輪よね。旅行用のドレスに一針入れる前に――そうじゃない? ねえ、そうでしょ!」

 しかし、ティルディは!

 湯気が立ちのぼり、やかましく、キャベツの香りがするボーグルズには、胸を痛める悲劇といえるものがあった。団子鼻で、干し草色の髪で、そばかすだらけの肌で、食べ物が詰まった体型のティルディには、いまだかつて賛美者がいなかったのだ。彼女がレストラン中を動き回っても、目で追う男はゼロで、ときたま、獣のように食べ物に飢えた者が睨みつけるだけだった。楽しそうに冷やかしてはきわどいウィットのやりとりをする者はいなかった。アイリーンにやるように、うるさく「いじって」、朝食の卵がなかなか来ないと、遅くまでうらやましい御身分の若い男と一緒にいたんだろうなどと責める者はいなかった。トルコ石の指輪をくれる者も、謎めいた遠い「パルジファル」への旅に誘う者もいなかった。

 ティルディは有能なウェイトレスだったから、男たちも我慢していた。彼女のテーブルに座ってしまったときは、献立表に書かれた言葉を手短に告げると、あとは、ハチミツか何かで味付けしたような口調で声をはりあげ、麗しいアイリーンに雄弁に話しかけた。椅子の中で身をよじって、迫ってくるティルディのまわりや向こうに目をやった。そうすれば、アイリーンの美貌が薬味となって、ベーコンエッグも神々の食べ物にでも変わるかのように。

 そして、ティルディはといえば、誰にも口説かれずにせっせと働いていることに満足していて、アイリーンがおだてられて敬われていさえすれば、それでよかった。団子鼻は鼻筋の通った低いギリシア鼻に忠実なのだった。彼女はアイリーンの親友だったのだ。アイリーンが男たちのハートを支配して、湯気の立つポットパイやレモンメレンゲに男たちの関心を向けさせないのを見てうれしかった。しかし、そばかすと干し草色の髪の奥深くでは、どんなに不器量な者とて、王子様やお姫様が、ほかのだれでもなく、自分ひとりのところにやって来ることを夢見ているものである。

 アイリーンがうっすらとあざのできた目で軽やかにやってきた朝があったが、ティルディはどんな目の傷も治ってしまうような気遣いをみせた。

「新参者の奴だよ」とアイリーンは説明をはじめた。「昨日の夜、家に帰るときに二十三丁目と六番街の角にいたらね。気取って歩いてんだよ、あいつが。それでこっちに向かってきたの。あたしは断ったわ、きっぱり。そしたらこそこそしはじめたんだけど、十八丁目までついてきて、また暑苦しいこと言うわけ。まったく! でも一発ばちっとはたいたんだ、あいつの横っ面を。そしたらあたしの目をこうしてくれた。これ、かなりひどい感じかな、ティル? ニコルソンさんに見られちゃうなんて最悪、十時に紅茶とトーストを食べに来るのに」

 ティルディは息をのみ、感嘆して、その武勇伝を聞いた。男に追いかけられたことなどいまだ一度もなかったからだ。二十四時間、いつ出歩いても安全だったからだ。すごく幸福だったにちがいない、男に追いかけられて、愛ゆえに目のまわりにあざをつけられるなんて!

 ボーグルズの客のなかに、シーダーズという、洗濯屋で働く若い男がいた。シーダーズ氏は痩せぎすの明るい色の髪の持ち主で、いましがたざっと乾かされて糊付けされたような雰囲気をいつも漂わせていた。あまりに内気なため、アイリーンの気を引こうという勇気はなかった。だから、たいていティルディのテーブルにつき、ひたすら黙々と茹でた魚に集中するのだった。

 ある日、ディナーにやって来たシーダーズ氏は、すでにビールを飲んできていた。レストランには二、三人の客しかいなかった。シーダーズ氏はいつもの魚をたいらげると、立ち上がり、腕をティルディの腰にまわし、派手にぶしつけにキスをし、通りへ出ていき、洗濯屋があるほうに向けて指を鳴らし、スロットマシーンで遊ぶためにゲームセンターへとさっさと立ち去った。

 しばし、ティルディは固まって立ちつくした。やがて気がつくと、アイリーンがいたずらっぽく人差し指を振って、こう言っていた。

「まあ、ティルったら、いけない()! なんかこわいことしそう、こっそりと! まずはあたしの男を何人か奪っていくんじゃないの。見張ってないと、ああ、こわ、お嬢さま」

 正気を取り戻すにつれ、ティルディは認識を新たにした。自分は、一瞬のうちに、どうしようもない下っ端の賛美者という地位から強大なアイリーンに並ぶ女へと昇格したのだ、と。いまや魔性の女、キューピッドの標的、征服者ローマ人の宴の席でなまめかしくふるまうサビーニ人の女になったのだ、と。男にとって、この腰は手に入れたいもの、この唇はぜひとも奪いたいものになったのだ、と。いきなり、恋するシーダーズが、いわば、彼女にたいして、奇跡ともいえる洗濯仕事を即日でやってのけたのである。彼女の不器量という粗い麻布を預かると、それを洗い、乾かし、糊をつけ、アイロンをかけて、刺繍入りの薄い滑らかで上等な綿布に変えたのである――ヴィーナスの衣に。

 ティルディの頬のそばかすは薔薇のように上気した肌のなかに溶けていった。いまや妖婦キルケと美少女プシュケーがそろってきらきら輝く目からのぞいていた。アイリーンでさえ、店内でおおっぴらに抱かれたり、キスされたりしたことはなかったのだから。

 ティルディはこの嬉しさを秘密にしておけなかった。お客が少なくなると、ボーグルの机の前に行った。目は輝いていた。言葉が、鼻にかけた、自慢気な響きにならないように気をつけた。

「今日、男の人に襲われちゃったんです」彼女は言った。「腰を抱いて、キスしてきたんです」

「そうか」ボーグルは言い、商売の防護箱をがしゃがしゃと開けた。「来週から給料を一ドル上げよう」

 つぎの食事時になると、ティルディは馴染みの客の前に料理を置くたび、控え目に、まるで自分の魅力についてはあえて強調するまでもないかのような顔で、こう言った。

「今日、店で男の人に襲われちゃった。腰に腕をまわして、キスしてきた」

 客たちはその衝撃の告白をさまざまに受けとめた――疑う者、祝う者、これまではアイリーンだけに向けてきた冷やかしを彼女に浴びせる者。そして、ティルディの心は胸のなかでぐんぐん膨らんでいった。長いこと旅してきた灰色の平原の地平線に、とうとう、ロマンスの塔の立ち上るのが見えてきたのだから。

 二日間、シーダーズ氏は姿をみせなかった。そのあいだに、ティルディは求愛される女としての地位を着実に築いた。リボンを買い、アイリーンのヘアスタイルを真似、ウエストを二インチ(←約五センチ)絞った。ぞくぞくわくわくする不安も湧きあがってきて、そのうちとつぜん駆け込んできたシーダーズ氏にピストルで撃たれるんじゃないか、と心配になった。わたしを愛して絶望的になっているにちがいない、と。衝動的な愛に駆られた者はつねに闇雲に嫉妬するものだから、と。

 アイリーンですらピストルで撃たれたことはなかった。だから、ティルディは彼に撃たれたくなかった。アイリーンにいつだって忠実だったのだ。親友を日陰に追いやりたくなかった。

 三日目の午後四時、シーダーズ氏がやって来た。テーブルに客はいなかった。店の奥で、ティルディはマスタードの瓶を詰め替えていて、アイリーンはパイを四つに切っていた。シーダーズ氏は彼女たちのところへ歩いてきた。

 ティルディは顔を上げて彼を見た。息が詰まり、マスタードのスプーンを心臓に押しあてた。髪には赤いリボン。首には八番街のヴィーナスのしるしである、銀のハートが揺れる青いビーズのネックレス。

 シーダーズ氏は顔を赤らめていて、きまり悪そうだった。片手を尻ポケットに、もう片方はできたてのパンプキンパイに突っ込んだ。

「ティルディさん」彼は言った。「先日の夜にしたことを謝りたいです。実を言うと、すごく酔ってました、そうじゃなければあんなことはしません。素面だったら、女性にあんなことはしません。だからお願いです、ティルディさん、私の謝罪を受け入れてください。自分のやっていることがわかっていたら、飲んでいなかったら、あんなことはしませんでした」

 この立派な弁解を終えると、シーダーズ氏はうしろに下がり、立ち去った。償いは済んだという思いで。

 しかし、すぐそばにあった衝立の陰では、ティルディがテーブルのバター皿とコーヒーカップのあいだにばたっと突っ伏し、泣き崩れて心をさらけだしていた――団子鼻と干し草色の髪の人々が旅するあの灰色の平原にふたたび戻っていた。赤いリボンを結び目からむしり取り、床に放り投げた。シーダーズを徹底的に軽蔑した。彼のキスを、止まっていた時計の針を動かし、おとぎの国へとページを進める、開拓者で予言者たる王子様のキスだと彼女は思ってしまっていたのだった。しかし、あのキスは酔った勢いのもので、なんの意味もなかったのだ。偽の信号では宮廷は目覚めなかった。彼女はいつまでも眠り姫でいるにちがいない。

 とはいえ、すべてが失われたわけではなかった。アイリーンの腕が彼女をつつんだ。バター皿のあいだをまさぐっていたティルディの赤い手はやがて親友の温かい手に握られた。

「泣くことないよ、ティル」アイリーンは言った、すべてがわかっているわけではなかったが。「あんなカブみたいな顔の、ちっぽけな洗濯バサミのシーダーズなんか、泣く価値ないって。あれはまったく紳士じゃないね。紳士だったら、謝りになんか来ないよ」

 

 

 

{訳注1}十九世紀半ばにイギリスで刊行されたリチャード・ドイルのユーモラスな画文集『ブラウンとジョーンズとロビンソンの外国旅行』を踏まえたもの。その三人はベルギーやドイツやスイスやイタリアを旅して、市井の庶民とにぎやかに交流する。

{訳注2}十九世紀前半のフランスで、多くの文化人や政治家が集うサロンを主宰していた女性。

{訳注3}リヒャルト・ワーグナー作の楽劇。一九〇三年にニューヨークで初めて上演された。