戸山翻訳農場

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2014年

10月

03日

車を待たせて                    訳:田元明日菜

 ちょうど日が暮れはじめる頃、その静かで狭い公園の静かな一角に今日もまたやって来た灰色の服の女性。ベンチに腰掛けると読書を始めた。あと三十分は活字を追えそうだった。

 繰り返そう。彼女の服は灰色だった、そして、地味だったため、品の良いデザインのぴったりフィットしたものであるのがわかりにくかった。目の粗いベールがターバンハットと顔を隠していたが、しかし、それを通してでも、たおやかさと自然な美しさはまぶしいほどに見てとれた。彼女は前の日も、その前の日も、同じ時間にここに来ていた。そして、それを知っている者がいた。

 それを知っていたのは若い男で、近くをうろうろしながら、焼いた生贄をつぎつぎと幸運の神に捧げるような思いで、様子をうかがっていた。そんなひたむきさが報われたのか、ページをめくる彼女の指先から本が滑り落ち、まるまる一ヤード離れたところへ転がった。

 若い男は、即座に食いつくように本をひっつかむと、持ち主に返したが、そこには公園や公共の場でよく見かける――親切心と下心がいっしょになった、巡回中の警官を気にして調整された――雰囲気が漂っているようでもあった。男は、上機嫌な声で、いちかばちか、いきなり天気の話――世の多くの者に不幸をもたらしているおなじみの前置きの話題――を持ち出し、しばし身構えて、運の行く末を待った。

 女性はゆっくりと若者を眺めた。ごく平凡なこぎれいな服装で、表情にもとりたてて特徴のない顔をしている。

 「よろしければ、お座りになって」彼女はゆったりと落ち着いた低い声で言った。「ぜひ、そうしていただきたいわ。読書をするにも日が落ちてしまいましたし。お話しでもしましょう」

 幸運の神の僕(しもべ)は、にこやかに彼女の隣へスッと腰を下ろした。

 「わかってるかな?」彼は公園で出会いを仕掛ける男たちの常套句を口にした。「長年見てきたなかでも、きみはとびきりの、驚くほどの美人だってこと。昨日からずっと釘付けだよ。きみの放つ愛らしい光に、すっかりまいってしまった男がいることに気がついてなかったかい、ねえ、ハニー?」

 「どなたかは存じ上げませんが」女性は言い放った、氷のように冷ややかな声だった。「はっきりさせておきますけど、わたくしはレディーです。いまおっしゃったことは大目にみてさしあげます、そういった思い違いはきっとないわけではないのかもしれませんからね――あなたがたのあいだでは。お座りくださいとお願いしたのはわたくしですし。でも、そうお誘いしたことでハニーなんて呼ばれるはめになるのでしたら、撤回させていただきます」

 「本当に、本当に、申し訳ありません」若い男は謝罪した。満足気だった顔が後悔と自責の表情に変わっていた。「僕が間違っていました。つまり、その、女性が、公園の、ほら――その、もちろんご存じないでしょうが、でも――」

 「その話は止めにしませんか。もちろんわかっていますよ。それより、教えてくださる? あの方たち、先を争うようにしてあっちへこっちへせっせと歩いていますけど、ほら、そこの道をね、いったい、どこへいらっしゃるの? どうしてあんなにせかせかしているの? みんな、幸せなのかしら?」

 若者は、媚を売るような態度はさっさと捨てていた。いまや、役回りは、相手の出方次第ということになっていた。自分に期待されている役割がわからなくなっていた。

 「見ているとおもしろいですね」彼は彼女の気持ちを推し量って答えた。「人生の不思議なドラマってやつですよ。食事に出かける者もいれば、どこか――えーと――また別のところへ行く者もいて。みんながどんな人生を送ってきたのか、考えさせられます」

 「わたくしは考えません」女性は言った。「そんなに詮索好きではありませんから。ここに来て座っているのも、こうしているだけで、人間の心の大いなる鼓動が身近に感じられるからですよ。わたくしにあたえられた人生のまわりではそういった鼓動はいっさい感じられませんのでね。どうしてあなたに話しかけたのか、おわかりになる、ミスター……?」

 「パーケンスタッカーです」と若い男は補った。熱く期待するような顔になった。

 「やめましょう」と女性は言い、ほっそりした指を立ててかすかにほほえんだ。「聞けばすぐにおわかりになると思いますけれど。活字にならないように名前を隠しておくなんて無理ですから。姿を見られないようにするのもそう。このベールもこの帽子もメイドが用意しました、お忍びで出かけられるようにね。わたしには見えていないと思って運転手がこの格好をじろじろながめていたところをお見せしたかったわ。正直な話、名家とわかってしまう名前が五つか六つありますけれど、わたくしの名前は、たまたま生まれがそういうところでしたので、その一つです。あなたに話しかけたのは、スタッケンポットさん――」

 「パーケンスタッカーです」と若者は正した、穏やかに。

 「――パーケンスタッカーさん、わたくしは一度でいいから普通の方とお話ししてみたかったのです――いやらしい虚飾の富や偽りの高い地位といったものに害されていない方とね。ああ! わかっていただけないでしょうね、わたくしがどんなにうんざりしているか――お金、お金、お金ばかりですよ! それに、まわりにいる男たちは、おなじ型でくりぬかれたちっぽけなマリオネットみたいに踊っているんですから。娯楽も、宝石も、旅行も、社交界も、贅沢と名のつくものすべてがもううんざりです」

 「僕はずっと思ってました」若い男は口ごもりながら思い切って言った。「お金はなかなかいいものだって」

 「ほどほどのお金ならいいですよ。だけど、何百万も手にしてごらんなさい――!」彼女は絶望の身振りで締めくくった。「退屈なものよ」とつづけた。「飽き飽きする。ドライブ、ディナー、お芝居、舞踏会、夜食、どれも過剰なまでに贅沢に飾り立てられていて。シャンパングラスのなかの氷がチリンチリンと鳴るだけで気が狂いそうになるときもあります」

 パーケンスタッカーは、素直に興味を持ったようだった。

 「昔から好きなんです」と彼は言った。「裕福な上流の方々の話を読んだり聞いたりすることが。まあ俗物なんでしょうね。でも知識を正確なものにしておきたいんです。というのも、僕はいままでてっきり、シャンパンはボトルで冷やすもので、グラスに氷を入れたりはしないと思っていたものですから」

 女性は、心底から面白がるように、響きのよい笑い声をあげた。

 「知っておくといいですよ」彼女は説明した、余裕たっぷりに。「わたしたち、世間のお役に立てない階級の人間は、面白味を求めて前例から外れていくことをよしとしているの。シャンパンに氷を入れるのが、いまはね、ちょっとした流行りなんですよ。もとはといえば、ニューヨークにやってきたタタールの王子がウォルドーフ・ホテルでの晩餐の席でひょいと思いついたことです。いずれ、これも別な気まぐれに取って代わられるでしょう。じっさい、今週開かれたマディソン街の晩餐会では、子ヤギの革でつくった緑色の手袋がお皿の隣に置かれていました、オリーブを食べる時にはそれを使うようにと」

 「そうですか」若い男はうなづいた、つつましく。「そういった偉い方々の特別なお遊びは普通の人たちには馴染みがありません」

 「ときどき思いますよ」と女性は、思い違いを認めた男を容認するように会釈してから、つづけた、「わたくしが恋をするとしたら、相手は身分の低い方かもしれないって。労働者で、世間のお役に立たない人ではない方ね。だけど、まちがいなく、階級と富の縛りはわたくしの思いなんかよりはるかに強いでしょう。いまも二人の方から言い寄られています。一人はドイツ公国の大公。どこかに奥様がいるのですが、いえ、いたと言うべきかしら、大公があんまり横暴で残酷だったせいで、気が触れてしまったという話です。もう一人の方は英国の侯爵ですけれど、とても冷酷でお金に汚いので、悪魔のような大公の方がわたくしはまだ許せます。あら、どうしてあなたにこんな話をしているのかしら、パッケンスタッカーさん?」

 「パーケンスタッカーです」若い男はため息をまじえて言った。「あなたにこんなに信頼していただけて嬉しいかぎりです、本当に」

 女性は若い男をじっと見つめたが、その落ち着いた冷淡なまなざしが二人の身分の違いを物語っていた。

 「どんな仕事をしていらっしゃいますの、パーケンスタッカーさん?」と彼女は訊いた。

 「ひどくいやしい仕事ですよ。でも、身を立てたいとは思っています。本気でおっしゃったんですか、身分の低い男を愛せるというのは?」

 「ええ、もちろん。でも、わたくしは『かもしれない』と言いました。いまは大公と侯爵がいますからねえ。そうね、いやしい仕事なんてありませんよ、その人がわたしの望む男性なら」

 「ぼくは」パーケンスタッカーは高らかに言った、「レストランで働いているんです」

 女性がわずかにたじろいだ。

 「ウェイターじゃないわよね?」彼女は言った、少しばかり哀願口調だった。「労働は尊いものです、だけど、人のお世話をするのは、ねえ――召使いとか――」

 「ウェイターじゃありません。レジ係です」――彼らの向かい、公園の反対側の道に、輝く電光看板で「レストラン」とあった――「レジ係です、そこに見えるレストランの」

 女性は左手首の豪奢なデザインのブレスレットに嵌まった小さな時計をのぞくと、慌ただしく立ち上がった。本を、腰から下げたきらきら光る小物入れに押し込もうとしたが、しかし、本は大きすぎた。

 「お仕事に行かなくていいの?」女性が訊いた。

 「夜の勤務ですから」若い男は答えた。「まだ一時間あります、仕事が始まるまで。もう一度お目にかかることは叶わないでしょうか?」

 「わからないわ。もしかしたらね――だけど、こんな気まぐれを起こすことはもうないでしょう。さあ、もう行かなくっちゃ。晩餐会に、ボックス席でのお芝居に、ああ! 同じことの繰り返し。ひょっとして、ここへいらっしゃるときに、公園の向こうの角に車が止まっているのに気がついたかしら。白い車よ」

 「赤い車軸の?」男は尋ねた、考えこむように眉をひそめて。

 「そうよ。いつもその車で来ます。ピエールがそこで待っています。向こうにあるデパートでわたくしが買い物をしていると思ってます。想像つくかしらね、日常の束縛、運転手の目さえ欺かなくてはいけない生活のこと。それでは、おやすみなさい」

 「だけど、もう暗いですよ」パーケンスタッカー氏は言った。「公園には物騒な輩がたくさんいます。よろしければそこまで――」

 「わたくしの気持ちを少しでも尊重してくださるなら」女性は頑な調子で言った。「わたくしが行ってしまった後も、このベンチに十分は座っていてくださいな。あなたに悪気がなくても、見えてしまうでしょう――車には持ち主の紋章がついていますから。では、あらためて、さようなら」

 素早くかつ堂々と、彼女は夕暮れの中を進んでいった。若い男がその優雅な姿を眺めていると、彼女は公園の端の道に出て、車が停まっている角へと歩いて行った。そこで彼は、彼女の言葉を裏切り、ためらうこともなく、公園の木々と植え込みをかわし、すり抜け、彼女と平行に、視界にしっかりととらえつづけながら進んだ。

曲がり角にさしかかると、彼女は振り向いて車をさっと一瞥し、そのまま通りを渡っていった。ちょうどよく停まっていた馬車の後ろに隠れながら、若い男は彼女の動きをつぶさに目で追った。公園の真向かいにある歩道を進み、彼女はまばゆい看板のレストランに入っていった。あからさまにけばけばしいたぐいの建物で、白いペンキが塗られ、ガラスが張られただけの、安物を食べているのが丸見えになるような店だった。女性はレストランのなかを突っ切ると奥に引っ込み、すぐに帽子とベール無しであらわれた。

 レジは入り口のすぐそばにあった。赤毛の女性が、露骨に時計を見ながら、スツールから降りた。そして灰色の服を来た女性が、そこにのぼった。

 若者はポケットに両手を突っ込むと、ゆっくりともと来た道を歩いた。曲がり角で、そこに転がっていた小さな紙表紙の本に足が当たり、本は芝生の端まですべっていった。絵画のような美しい表紙を見て、女性が読んでいた本だと気がついた。気のない様子で拾い上げて眺めると、題名は『新アラビア夜話』、作者の名前はスティーヴンソン。ふたたび芝生の上に落とした、そしてぐずぐずと、立ち去りがたい様子で、しばしそこにいた。それから車に乗り込むと、クッションにもたれかかり、運転手にぽつりと言った。

 「ヘンリー、クラブへ」