戸山翻訳農場

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2014年

11月

21日

A Convergence of Birds edited by Jonathan Safran Foer             川野太郎


 一九九七年、二〇世紀アメリカの芸術家ジョゼフ・コーネルの作品と人生に魅せられたひとりの大学生が、アメリカの名だたる作家たちに手紙を書いた。ありあまる情熱にまかせて色々書き込んだが、彼らに求めたのは要するに次のようなものだった。

 

……ジョゼフ・コーネルの鳥をテーマにした箱作品をイメージの源泉にした一篇の小説あるいは詩。とはいえ、コーネルや彼の芸術作品への明確な言及は必要ありません。

 

美術史は独学で、出版にもまったく無知な大学生の手紙は、原稿料や図版の使用許可といった事務的な事柄をもれなく書き漏らしていたが、この不十分な申し出に、二十一人の作家と詩人がこたえた。編者となった大学生のもとに数年がかりで集まった作品を纏めたのが『鳥の群れ』(A Convergence of Birds)である。

 この学生編集者が、本書刊行の翌年に処女長編小説『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』を発表して脚光を浴びる若き日のジョナサン・サフラン・フォアである。彼は序文で、「作家たちは僕や僕の願いにこたえたのではなく、コーネルに、あるいはコーネルの箱の呼びかけにこたえたのだ」と、本の成り立ちを説明している。この謙虚な言葉にはたしかに真実が含まれている。が、フォアの独特な志向と愛情による仲介なくしてはこの本が成立していないことも強調しておいていいだろう。ニューヨークで生まれてニューヨークで没したジョゼフ・コーネル(一九〇三〜一九七二)は、二〇世紀の芸術家のなかでもとりわけ異彩を放つアッサンブラージュ・アーティストとして知られている。アッサンブラージュとは、既製品や「がらくた」を寄せ集めて作品を作ること。コーネルは街を歩き回り、安物雑貨の店で誰の目にもとまらないような物を集め、それらを箱に収めて作品にすることで、世界と関わろうとした。ここでフォアの小説を読んだことのある人は思い出していただきたい。『エブリシング・イズ・イルミネイテッド』や『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』に出てくる人たちの風変わりな収集癖や、箱詰めにされた過去の遺物が、世界の手触りを雄弁に伝えていたことを。フォアとコーネルは、ある意味で必然的に互いを見出したのだ。

 コーネルの箱のなにが人を惹き付けるのだろうかと考えたとき、評者が思い出すのは、すぐれた文筆業でも知られる音楽家・武満徹のエッセイである。一九九二年に鎌倉で催された「ジョセフ・コーネル展」に行ったときのことを綴った「翼をもった希望――ジョセフ・コーネル展を観る」(『時間の園丁』所収)のなかで、武満は箱の魅力をこう語っている。

 

コーネルの木箱の詩的劇場では、観るものがそれぞれに思い思いの劇(プレイ)を創造することができる。そのようなインティメートな交感を可能にする芸術。しかもそれが無限のレヴェルにおいて可能なのだ。だが、その深さと大きさとを、偉大な、というような陳腐な形容句に置き換えてしまうほどコーネルの芸術にそぐわぬものはない。

 

収められた作品の多様さは『鳥の群れ』の魅力だが、それはコーネルの芸術がもつ「深さと大きさ」によって可能になっているのではないか。作家たちはそれぞれ気に入った箱を使って、それぞれ独自の遊び方で遊んでいるように見える。だがそれでいて、ある種の親密さが本全体に感じられるのである。そこに描かれているのは、不眠の夜に思い出す本や少年時代(ハワード・ノーマン「お手本」)、鳥と人間の奇妙な関係に迫るうわさ話(ジョアンナ・スコット「スライド・ショウ」)、読むことでしか訪れることのできないホテル(ロバート・クーヴァー「グランド・ホテル」)、小声でこっそりと語られる女性の告白(ダイアン・ウィリアムズ「お話をひとつ」)、などである。コーネルの芸術をめぐって書かれるものはしばしば「偉大な」ものよりも、その影に隠れてしまうものを描き出すようだ。

 バリー・ロペスの「イーモリー・ベアズ・ハンズの鳥たち」がアンソロジーの幕開けである。カリフォルニアの刑務所に収監された男たちが、先住民の血を引くイーモリー・ベアズ・ハンズの動物にまつわる物語の虜になる。満月の夜、彼の話を信じる者だけに奇蹟が起こるのだが、これはその奇蹟を目撃した語り手の打ち明け話だ。耳を傾ける者にだけ、真相が知らされる。

 刑務所という箱が舞台になったロペスの短篇だが、箱に入ってあれこれ思いをめぐらす人間を描いた作品はほかにもある。カトリック禁教時代の英国で、ひとりの司祭が小さな隠れ家に身を潜めている場面からはじまるポール・ウェストの「はこづめ」や、「J.」という友人の奇妙な屋敷に招かれた男が屋内をさまようデール・ペックの「物たちの出現」がそれだ。コーネルの箱は、観る者に、そのなかに立っていろいろ考えてみたいと思わせるところがある。

 コーネルの箱はまた、そのなかに死者を呼び戻す。マリー・カポネグロの「というのも、わたしは死への歩みを止められないので」は、コーネルの箱のなかでも傑作と名高い《青い半島に向かって》が明らかなモチーフとなっている。この箱は、内側が白くぬられ、半分を覆う金網に面した縦長の窓が青色へ開かれているというもので、詩人エミリー・ディキンソンに捧げられている。カポネグロの短篇では、《青い半島に向かって》を制作したことによって死後の生を与えられたディキンソンがコーネルのもとを訪ねる。ふたりはコーネル行きつけのカフェでクリームパイを食べ、《青い半島》について、互いの弟について、言葉を交わす。

 美術評論家デボラ・ソロモンの手になる伝記『ジョゼフ・コーネル 箱の中のユートピア』によれば、コーネルは、マサチューセッツ州にある生家で生涯のほとんどを過ごしたというディキンソンに強く惹かれていたという。ディキンソンのように、コーネルもまた、ニューヨークのユートピア・パークウェイにある実家をほとんど離れることなく、母親と障碍をもった弟と暮らしながら、詩の箱を作っていた。

 ブラッドフォード・モローの「弟ロバートへ」は、カポネグロの短篇と同じように、ジョゼフ・コーネルを語り手にし、彼の日常に即して書かれている。クリスマス・イブは語り手ジョゼフの誕生日である。その日、彼は弟ロバートに誘われ、ロバートと母親とふたりの妹と、早くに亡くなってしまった父親の亡霊をともない、列車に乗って隣町までクリスマスのパレードを見にゆく。家族の前をパレードが横切っていく長い、美しい描写で、年末の忘れがたい一日を描いている。

 ジョイス・キャロル・オーツはしかし、ユートピア・パークウェイの隠遁の芸術家というありきたりなイメージを使わない。短篇「ボックス・アーティスト」の主人公は、一九三五年、箱に収める素材を捜し求めて埃っぽいロサンゼルスをさまよう人物である。この名前を持たないボックス・アーティストはまず間違いなくコーネルのイメージから出現したのだが、コーネルの伝記とは全く異なる生を生きている。いうなれば西海岸のコーネル、カメラ片手に一九二八年産のおんぼろフォードを乗り回すコーネルだ。これはオーツによる一種の奇術である。

 前述した伝記をふたたび参照すれば、コーネルは子どものころ、脱出の奇術で有名なあのハリー・フーディーニを目撃している。彼はのちに、芸術こそが、フーディーニのように日常から脱出する手段だと考えるようになったという。伝記によれば「奇術師はコーネルの子ども時代を通じて素晴らしい娯楽の代表だったばかりでなく、芸術の可能性の象徴として大きな影響を及ぼした。奇術と同じように芸術も、消え去るという演技ができた(……)コーネルの箱によくあらわれる金属の輪や吊り下げられた鎖などの要素は、すくなくとも部分的には日常の束縛から逃れたいと願う孤独な少年の見たフーディーニの思い出に結びついている」。オーツが生じさせたひずみから、コーネルであってコーネルではないボックス・アーティストは、いつもと同じように箱を作りながら、同時に日常の外へ抜けだしている。

 アンソロジーを締めくくるジョナサン・サフラン・フォアの「もしも老奇術師が信じることをはじめたら」では、年老いた奇術師が人生を振り返っている。彼は少年時代にコーネルが魅せられた奇術師のひとりのようでもあり、観客の子どもたちに囲まれる様子は、子ども限定の展覧会を開いた晩年のコーネル自身のようでもある。コーネルが芸術の源泉とした消失の奇術が、ここでは、力も落ちて物忘れがはげしくなった奇術師の声で語られる――。

 

ウサギを消したあと、どうやってまた出現させるのか忘れてしまい、両手を見つめ、その両手に仕掛けを探して思うのは、どうやってやったんだ? そしてインコが指ぬきから飛び立ち、青い羽根を、たしかに一度は指ぬきのなかにいたという証しとして地面に残していったときなど、老奇術師は尋ねる、どうやって? どうやって? どうやって? 手品だ、どれもこれも。わかっている。わたしがやったんだ。でもタネはなんだったんだ?

 

この切実さと滑稽さが同居する語りは、フォアの小説のファンにはおなじみだろう。

 手品ではないけれど、仕掛けにみちた一連の詩はこのアンソロジーを特徴づけている。リック・ムーディーの「行き着く先は、たいてい孤独な人生、あるいはパリでの暮らし」は、言葉のアッサンブラージュだ。箱にありもののオブジェが詰め込まれ、そのなかで思いがけない繋がりが見出されるように、様々なところから引っ張ってきたとおぼしきフレーズが重ねられている。読者は能動的に、行と行の連関を探すことになる。シリ・ハストヴェットの「九つの箱」は、文字通り九つの箱を詩で描写している。実在するコーネルの箱とのつながりは曖昧だが、そのような対応関係にもまして大切なのは、言葉から箱をイメージするということだろう。リディア・デイヴィスの散文詩「はずみは大きな喜び」は、じつに十ページが改行なしのひとつのセンテンスで――最後にピリオドがないのでセンテンスの一部と言う方が正しいのだろうが――構成されている。明確なストーリーはなく、題名の通り、書き出しの勢いで最後まで書ききったような一篇だ。声に出して読むと跳ねるようなリズムがある。箱がうながした思考の躍動が記録されているのかもしれない。こうした詩は、いたずらに実験的なのではなく、ほんらい沈黙している箱に声を与えるときに必要な工夫があるということを示している。

 書物のデザインにも意識的な編者は、各テキストの扉のカラー図版にも気を配っている(評者が持っているのは2007年のPenguin Books版)。テキストのなかで直接に言及されていない場合でも、ゆるく連想を誘うような箱の写真が置かれていて、読者が詩なり短篇なりを読み終え、あるいは読む途中で休憩するときに、何度も見返せるようになっている。コーネルのことを初めて知ったとき、フォアはニューヨーク市立図書館で借りた美術カタログを何度も見返したというが、あのときの自分と同じ喜びがこの本でも得られるように、と彼は考えたりしなかっただろうか? しかも巻末には、コーネルについての小さな伝記がついている。つまり『鳥の群れ』は、コーネルの作品と人生へのよき入り口になることを願っているのだ。序文でフォアは、当時気になっていた女友達にコーネルの伝記のコピーを渡したとき、タイトル・ページにこう書いたと告白している――「僕は大好きだ。君もきっと気に入るだろう( I LOVE THIS. YOU WILL LOVE THIS.)」。