戸山翻訳農場

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運命のいたずら                    訳:千田愛理

 公園に、さらに言ってしまえば、公園を自分の住まいとして使っている浮浪者の中にさえ貴族は存在する。ヴァランスはそのことを頭で理解しているというより身体で感じていた。しかし、それまでの生活から混沌へと降りていったとき、彼の足は自然とマディソン・スクエアへ向かった。

 女学生のように――とりわけ昔の女学生のように――青臭くて張りつめているような若々しい五月が、芽吹きはじめた木々のあいだに飾り気なく息づいていた。ヴァランスはコートのボタンを留め、最後のタバコに火をつけると、ベンチに腰を下ろした。三分間ほど、手元に残っていた最後の千ドルのうち、ほんとうに最後になってしまった百ドルをぼんやりと惜しんでいた。それは、自転車に乗った警官が彼の最後のドライブをやめさせてしまったときに、警官に支払ったものだった。それからすべてのポケットを探ってみたが、一セントたりとも見つからなかった。アパートの部屋は今朝手放してしまったし、家具はすべて借金のかたに差し押さえられていた。衣服もいま着ているもの以外は使用人への未払い賃金として渡してしまった。こうして座っている彼にとって、手に入れられるものなど何ひとつなかった。ベッドも、焼きロブスターも、路面電車の運賃も、ボタンホールに挿す一輪のカーネーションも、何ひとつ。友人たちにたかるか、詐欺でもしない限りは得ることができなかった。そういうわけで、男は公園を選んだのだった。

 これもすべては、おじが彼を跡取りにするのを取りやめ、気前よく与えていた小遣いもすべてなくしてしまったせいだった。というのも、この甥がとある娘のことで逆らったのだ。彼女はこの話には登場しない――したがって、そういう話を知りたい、という髪の毛を根元へ一本一本梳かさなければ気が済まないような方はこれ以上読まなくてもいいと言っておこう。彼にはもうひとり甥がいた。別の家系で、かつては未来を期待された跡継ぎであり、おじのお気に入りだった。しかし何の資質も将来性もなかったので、もうずいぶん前に泥沼へと消えていった。だが今になって、彼のために引き網が投げられた。元通り跡取りに復帰させるつもりなのだ。そういうわけで、ヴァランスは真っ逆さま、あの堕天使ルシファーのようにどん底へと転落し、小さな公園でぼろを着た幽霊たちの仲間入りを果たしたのであった。

 ヴァランスは座って硬いベンチの背もたれに寄りかかり、ふっと笑った。するとタバコの煙が吹き出て、いちばん低い木の枝のほうへ上って行った。突然人生のつながりがぷつんと切れてしまったことは、自由やスリル、楽しさに満ちた興奮さえもたらした。それはまさに気球乗りのような気分だった。パラシュートを切りはなして気球を飛ばした気球乗りは、きっとこんな気持ちなのだろう。

 時刻は十時近くだった。ベンチにいる者はそう多くはなかった。公園の住人たちは秋の涼しさにはしつこく奮闘するが、春に侵攻してくる寒さの一団にはたたかいを挑む気にはならないようである。

 そのとき、噴水のそばに座っていた一人の人物が立ち上がり、ヴァランスの近くにやってきて腰を下ろした。その男は若くも見えたし、年老いても見えた。安い下宿暮らしのせいでかび臭いにおいを放ち、髭剃りや櫛が見向きもせず通り過ぎてしまうような有様だった。彼にとって酒は、瓶詰されて悪魔の倉庫にしまい込まれ手の届かない代物となっていた。男はマッチを貸してくれと言ってきて――これは公園のベンチ住まいの人々の間ではお決まりのあいさつなのだが――それから二人の会話が始まった。

 「あんた、ここの常連じゃないな」男がヴァランスに言った。「仕立屋であつらえた服なんてすぐわかるよ、そいつを見ればな。ほんの少し休んでるだけなんだろ、通りすがりにさ。ちょっとばかし俺の話を聞いちゃくれないかい?誰かと一緒にいなくっちゃやってられないんだ。おお怖い――俺は怖いんだよ。二、三人にはもう話したんだ。そこにいるやつらの何人かにはな。あいつら、俺がいかれちまったと思ってやがる。なあ、話さしてくれよ――俺が今日食わなきゃいけなかったもんはプレッツェルいくつかとリンゴ一個だけ。ところが、明日には三百万ドルを相続することになってんだ。ほらそこのレストラン、周りに車が止まってるの見えるだろ、あそこだって、俺が食事するには安すぎるくらいになってんだぜ。信じられないだろ、え?」

 「これっぽっちも疑ってないよ」ヴァランスはそう言って笑った。「ぼくは昨日その店でランチを食べたんだ。でも今夜は、五セントのコーヒー一杯すら買えやしない」

 「あんたは俺たちの同類には見えないけどな。でも、そういうこともあるんだろう。こんな俺だって羽振りがよかったんだ――何年か前までは。あんたはなんだってまたゲームから追い出されちまったんだ?」

 「ぼくは――まあ、仕事をなくしたんだ」ヴァランスが答えた。

 「ほんとの地獄みたいだよな、この街ときたら」もう一人が続けた。「ある日お高い磁器(チャイナ)で飯を食ったかと思ったら、次の日には中華料理(チャイナ)を食ってんだからな。チャプスイを出す安い飯屋でよ。俺はもう手に余るぐらいの不運を抱えてきた。ここ五年は物乞いよりはちょっとましって暮らしでさ。贅沢に暮らしてなにもしなくていいように育てられたってのになぁ。なあ――あんたになら話せるかな――だれかに話さなきゃやってられないんだ、わかるだろ?だって怖いんだ――ほんとに怖いんだよ。俺の名前はアイドだ。あんたはポールディングのじいさん、あのリバーサイドドライブの百万長者さ、そいつが俺のおじ(・・)だなんて考えてもみないだろ、なあ?でもそうなんだよ。俺も昔はあいつの家で暮らして、金だって欲しいだけもらってたんだ。なあ、あんた飲みもん買うだけの金なんてもってないよな、ええっと…名前は――」

 「ドーソン」とヴァランスは答えた。「ああ、その通りさ。残念だけど、金がなくてほとほと疲れ切ってるんだ」

 「俺はここ一週間、ディヴィジョン・ストリートにある石炭倉庫で寝泊まりしてる」とアイドは続けた。「 “まばたき(ブリンキー)”モリスって呼ばれてる泥棒と一緒にな。ほかにどこにも行く当てがなかったんだ。今日出かけてる間に、なにやら書類をポケットに突っ込んでるやつがそこにいたんだが、どうやら俺に用があったらしい。そいつが刑事だってことしかわかんねぇから、日が暮れるまでねぐらには近寄らなかった。そしたら、俺宛の手紙が置いてあったんだよ。おい――ドーソン、それはあのご高名なダウンタウンの弁護士、ミードからだったんだ。アン・ストリートでそいつの看板を見たことがあってな。なんでもポールディングは、俺に浪費ぐせのある甥っ子役を引き受けてほしいそうだ――戻ってきてもう一度やつの跡継ぎになり、金を無駄遣いしてほしいんだと。明日の十時にはその弁護士の事務所に行って、元のようにむかし履いてた古靴に足を通すのさ。――三百万の相続人だぜ、ドーソン、それに年に一万ドルの小遣いだってもらえるんだ。だから――怖い、怖いんだ」

 その浮浪者は、ぱっと跳び上がると震える両腕を頭上にかかげた。息をつめて狂ったように呻いた。

 ヴァランスは男の腕をつかんで無理やりベンチに座らせた。

 「落ち着けよ!」ヴァランスは強く言った。その声には腹立たしさのようなものがにじんでいた。「まるで財産を失った人みたいじゃないか。これからひと財産手に入れるっていうのに。いったい何が怖いんだよ?」

 アイドはベンチの上で縮こまって震えていた。そしてヴァランスの袖にすがりついた。ブロードウェイの街灯りのかすかな光が差し込む中でさえ、遺産を取り逃したばかりの男には、奇妙な恐怖のためにアイドの額ににじみ出た汗のしずくが見えていた。

 「そりゃ、朝までになにか起きるんじゃないかって心配なんだよ。なにかはわかんねぇけど――あの金を手に入れることができなくなるようなことがさ。木が倒れてくるかもしれない――馬車に轢かれたら、屋根から石が落ちてきたら、とかなんかあるかもしれないだろ。こんなに怖いことなんて今までなかったんだぜ。この公園に居座って数百晩、彫刻みたいに静かな気持ちでいられたんだ。その日の朝飯をどこで調達するかなんて知ったこっちゃない。でも今はちがう。俺は金を愛してるんだよ、ドーソン――神様にでもなったみたいに幸せなんだよ。金が指からこぼれ落ちるようなときや、みんなが俺にぺこぺこ頭を下げるときなんかはさ。音楽や花々、それに上等な服があればもっといいね。俺の知ってる限りじゃあ、俺はゲームからはじき出された人間だったが、そんなことは気にしちゃいなかった。ここに座ってるだけで幸せだったんだ。ぼろを着て腹を空かせて、噴水の音を聞いたり、馬車が大通りを上がっていくのを眺めたりしながらさ。でも、金がまた手の届くところまで来てるんだ、あとちょっとなんだよ――俺はもう十二時間も待てねぇよ、ドーソン――耐えられないんだ。それまでに起こりそうなことが五十は浮かんでくる――目が見えなくなったら、心臓発作に襲われたら、――もし世界が終っちまったら、俺が金を手にする前に――」

 アイドは再び跳び上がると、金切り声を上げた。ベンチにいた人々が身じろぎをしてこちらに目を向けた。ヴァランスは彼の腕をとった。

 「来いよ、ちょっと歩こう」なだめるようにそう言った。「落ち着いて。興奮したり怯えたりする必要なんてないだろ。なんにも起こりはしないさ。いつもと変わらない夜だよ」

 「そうだな」とアイドは言った。「いっしょにいてくれよ、ドーソン――あんたはいい奴だよ。ちょいとばかし一緒に歩いてくれ。こんなにまいってるのは初めてなんだ。今まで散々ひどい目に遭ってきたのにな。ちょっとした食い物をちょろまかしたりはできないですよねぇ?気が滅入っちゃって物乞いどころじゃないんだよ」

 ヴァランスは連れを引っ張ってほとんど人気のない五番街を北へ抜け、三十丁目に沿って西へ進み、ブロードウェイへ向かった。「すこしここで待ってて」と言って、アイドをひっそりとした暗がりに残していった。なじみのホテルに入ると、すっかり慣れた足どりでぶらぶらとバーへ歩いていった。

 「外にかわいそうな奴がいるんだ、ジミー」とバーテンダーに声をかけた。「腹が減ったと言っているし、実際そんな感じに見える。でもよく知ってるだろ?やつらがどうするかなんて、金をやったところでさ。サンドイッチをいくつか用意してくれないかな、投げ捨てたりしないように見てるからさ」

 「かしこまりました、ヴァランス様」とバーテンダーは答えた。「ああいう連中もみんなが嘘つきというわけではありませんからね。誰かがおなかをすかせているのを見るのは嫌なものです」

 バーテンダーは気前よく作ってくれた無料の食事をナプキンに包んだ。ヴァランスはそれを持って連れと落ち合った。アイドはがつがつと食らいついた。「こんな上等なタダ飯にはここ一年ありついてねえよ」と言った。「あんたは食わないのか、ドーソン?」

 「おなかが空いてないんだ、ありがとう」とヴァランスは答えた。

 「スクエアに戻ろう」とアイドが言った。「あそこならデカも邪魔してこないだろう。このハムかなんかの残りは朝飯用に包んでおくよ。俺はこれ以上は食わない。病気になるのが怖いんだ。もし腹を壊したりなんかして今夜死んじまったら、もうあの金には二度と手が届かないんだ!弁護士に会うまであと十一時間。俺を置いてかないでくれよな、ドーソン?なにかあったらと思うと怖くって。どこにも行くとこなんてないんだろ、なあ?」

 「そうさ」ヴァランスは答えた。「どこにもないよ、今夜は。きみと一緒にベンチにいるよ」

 「あんたは冷静だな」アイドが言った。「本心から言ってるんだとしたら。高給取りから一日で浮浪者の身に置かれたやつってのは髪をかきむしったりするもんだと思ってたぜ」

 「それを言ったらぼくだって」とヴァランスが応じる。「翌日には大金を手にすることになってる男っていうのはもっと気楽で落ち着いてるもんだと思ってたよ」

 「おかしなもんだな」アイドは哲学者めいた口調で言った。「ひとの物事のとらえ方ってのは。ほら、こっちはあんたのベンチだ、ドーソン、そしてすぐ隣にあるのが俺のベンチ。ここじゃ街灯の光も目に入ってこない。なあ、ドーソン、やつにお前の仕事の紹介状を書いてもらうよ、俺が家に戻ったらさ。今夜はあんたにたくさん世話になったし。この一晩乗り切れなかったよ、あんたに出くわさなかったら」

 「ありがとう」ヴァランスが言った。「横になるのかい、それとも座ったまま?ベンチで寝るときって」

 何時間も、ヴァランスはまばたきもせずに木々の間からのぞく星々を見つめ、鋭く打ち付けるような馬の足音が、アスファルトの海を南へと進んでいくのを聞いていた。頭は冴えていたが、心は麻痺していた。ありとあらゆる感情が根こそぎなくなってしまったかのようだった。なんの後悔も、恐怖も、痛みも、不快さも感じなかった。例の娘のことを考えたときでさえ、彼女はいま見つめている遠い星の住人であるかのようだった。連れの奇妙で馬鹿げた行動を思い出してそっと笑ったが、それも彼を明るい気分にはしてくれなかった。まもなく、毎朝恒例のミルク売りの馬車の大軍が、騒々しいドラムのような音を立てて街中を行進し始めた。ヴァランスは居心地の悪いベンチの上でぐっすり寝入っていた。

 翌日十時ちょうどになると、二人はアン通りにあるミード弁護士の事務所のドアの前に立った。

 アイドはかつてないほど動揺して、約束のときが刻一刻と迫っているのを感じていた。一方ヴァランスは、彼が恐れている危険のえじきになるかもしれないと思うと、彼をひとり残しておくことはできなかった。

 事務所に入ると、ミード氏は二人を見て驚いた。彼とヴァランスは昔なじみだったのだ。ヴァランスへ挨拶を済ませると、彼はアイドのほうへ向きなおった。そのアイドはというと、顔面蒼白になり手足を震わせて立って、迫りくる危機を目の前にしていた。

 「昨晩あなた宛てに二通目の手紙を送ったのですがね、アイドさん」と彼は言った。「今朝になって知ったのです。あなたが留守にしていて手紙を受け取っていないということを。その手紙にはこう書いてあります。ポールディング氏はあなたをまた贔屓してやろうという申し出をよくよく考えなおした、というものでして。氏はあなたへの申し出を取りやめることに決定しました。また、これだけは承知してもらいたいとおっしゃっています。あなたと氏との関係にはなんら変わりはないのだ、ということを」

 アイドの震えはとたんにおさまった。顔には血色が戻り、背筋はピンとまっすぐになった。あごは前に半インチ出て、目にかすかな光が宿った。使い古した帽子を片手で後ろのほうで押さえ、もう一方の手を伸ばした。その指の先には弁護士がいた。大きく息を吸うと、馬鹿にしたように笑った。

 「ポールディングのじじいに行っとけ、地獄へ落ちろクソ野郎ってな!」彼は大声ではっきりと言い放つと、くるりと振り返って事務所の外へ出ていった。しっかりとして元気な足取りだった。

 ミード氏はヴァランスのほうへ向きなおると微笑んだ。

 「来てくれてうれしいよ」彼はにこやかに言った。「おじ上はすぐにでも君に戻ってきてほしいそうだ。なんでも、自分が早まったことをしてしまった状況についてよく考え直されたそうで。こう言いたがっていらしたよ、なにもかも今までどおりで――」

 「おい、アダムス!」最後まで言い切ることなく、ミード氏は叫んで事務員を呼んだ。「水を持って来い――ヴァランスさんが気絶した!」