戸山翻訳農場

作業時間

月曜 14:45~18:00

木曜 16:30~18:00

金曜 18:00〜21:30?

ブログ



運命、ふたつの衝撃                  訳:山﨑美樹

 公園にも貴族はいるし、公園を自分の部屋代わりに使う浮浪者たちのなかにだって貴族はいる。バランスはそのことを知っていた、というよりも、なんとなく感じていた。しかし、それまでいた世界から混沌の中へと転げ落ちてしまったとき、彼の足はまっすぐにマディソン・スクウェアに向かっていた。

 青臭くてさっぱりとした女学生――それも昔ながらの――みたいに若々しい五月が、芽吹き始めた木々の間にひっそりと息づいていた。バランスはコートのボタンをとめ、最後のタバコに火をつけると、ベンチに腰を下ろした。三分間ほど、最後の最後に残った千ドルのうちの百ドルのことを、ぼんやりと後悔した。最後のドライブのとき、自転車警官に没収されるはめになってしまったのである。それから全てのポケットを探ってみたが、ペニー硬貨一枚だって見当たらない。彼はその朝、アパートを引き払わなくてはならなかった。家具は借金のかたとして差しおさえられてしまったし、衣類は今着ているものを除いて、未払いの給料代わりに使用人の手に渡ってしまっていた。こうして腰かけたときには、この都市のどこにも、彼のためのベッドも焼いたロブスターも路面電車の運賃も、ボタンホールにさすカーネーションだって存在しなかった。友人にたかるか、人を騙しでもして手に入れない限りは。そんなわけで、公園を選んだのだった。

 これもみんな、叔父が彼を跡取りにするのを取りやめて、たっぷりあった小遣いをすっぱりなくしてしまったためだ。そしてそれはみんな、甥である彼がとある女性のことで叔父に逆らったためなのだが、その女性というのはこの物語には登場しない――したがって、髪の根元までブラシをかけずにはいられないというような方々には、これ以上読み進めても意味がないとご忠告しておこう。もう一人の甥は別の血筋で、かつては跡取りになることを期待された最有力候補だった。しかしながら、なんの資質も将来性もうかがわせないまま、彼はとうの昔に泥沼へと姿を消してしまっていた。ところが現在、投げ網に引きずり上げられたことで、更生させ、跡取りとして復帰させようということになったのである。一方、その結果として、バランスはルシファーのごとく真っ逆さまに地獄へと落ち、ちっぽけな公園のぼろを纏った亡霊たちの仲間入りを果たしたのだった。

 そうして腰を下ろし、彼は硬いベンチにもたれかかって笑った。吹き上がったタバコの煙が、一番低い木の枝にまで届いていた。突然に生活する上での全てのしがらみから解放されたことが、彼に自由や、ぞくぞくするような、ほとんど愉快といってもいいような高揚をもたらしたのだ。ちょうど、繋ぎとめられていたパラシュートの綱を断ち、思うまま気球を飛ばすときの操縦者と同じ感覚だろう。

 時刻はもうじき十時になる。ベンチに座っている浮浪者はそう多くなかった。公園の住人というのは、秋の肌寒さに対しては頑なな戦士でいるものだが、春の寒気の前線部隊に対して、真っ向から挑もうとはしないのだ。

 そのとき、噴水の近くのベンチにいた一人が立ち上がってやって来ると、バランスの隣に腰かけた。彼は若くも老けても見える男で、お粗末な宿暮らしでかび臭いにおいが染みついていたし、剃刀や櫛とは長らく縁がないようだった。おまけに酒は悪魔の倉庫に密封されてしまって、どうにも手を出せずにいるといった様子だ。マッチをくれないかと言ってきたのは、公園の住人の間での挨拶のようなもので、続けて男は話を始めた。

「あんまり見ない顔だね」彼はバランスに言う。

「仕立て屋であつらえた服ってのは見れば分かるよ。公園を通り抜けようとして、ちょっと腰かけただけってところかな。よかったら、しばらく話を聞いちゃくれないかい? 誰かと一緒にいたいんだ。こわくて――こわくてたまらないんだ。向こうにいる連中の数人にはもう話したさ。やつらは皆、僕がおかしくなったと思ってるんだ。そう、話させてくれ――僕が今日食べたものは、ちょっとのプレッツェルと一個のリンゴ、それで全部なんだ。でも明日には三百万ドルを相続するっていうんだよ。向こうに見える、車がたくさんとまってるようなレストランも、食事するには安すぎるくらいだ。信じられないだろ?」

「なんの問題もなく信じられるさ」バランスは笑いながら答えた。

「おれは昨日、あそこで昼食をとったんだ。でも今夜は五セントのコーヒー一杯買えやしないんだから」

「あんたは僕らの同類には見えないけど。まあ、そんなことも起こるんだろうな。僕も前は野心家だったし――何年か前はね。一体、なんだってゲームオーバーになっちゃったんだい?」

「おれは――まあ、職を失ってね」バランスは言った。

「地獄みたいだよ、この街ときたら」男は続ける。

「ある日は陶磁器(チャイナ)で食べていたと思ったら、次の日は中国(チャイナ)で――中華の安レストランで食べてるっていうんだから。僕だって抱えきれないくらいの不運に見舞われてきた。五年間、物乞いよりはちょっとマシっていう暮らしだったよ。贅沢に何もしなくていいように育てられてきたっていうのに。ううん、言ってもいいよな……誰かに話したかったんだ、分かってくれ、だって、こわくて――こわくてたまらないんだよ。僕はアイドゥっていうんだ。ポールディングのじいさん、リバーサイド・ドライブの億万長者のひとりが僕のおじだなんて、あんたは思いもしないだろうな。でも、そうなんだよ。僕も昔はその家に住んでて、小遣いだって欲しいだけ貰ってた。ねえ、あんたは二杯分の酒代も持っちゃいないかな――えっと、名前は――」

「ドウソンだ」バランスは答えた。「いいや、悪いが、かつかつでね」

「僕はこの一週間、ディヴィジョン通りの石炭倉庫で暮らしてたんだ」アイドゥが続ける。「ペテン師、“忌々しい(ブリンキー)”モリスと一緒にね。他に行くところがなかったから。今日出かけている間、ポケットに書類を突っ込んだやつが僕を尋ねてきたらしいんだ。そいつのことは知らないけど、警察だってことは確かだったから、暗くなるまで帰らなかったよ。そしたら、僕宛ての手紙が残されてた。それがね、ドウソン、有名なダウンタウンの弁護士、ミードからだったんだ。アン通りで看板を見たことがある。ポールディングが僕に放蕩甥っ子をやってほしいって――戻ってきて跡継ぎになって、好きなだけ金を使ってくれっていうんだよ。明日十時にその弁護士事務所に行って、僕は昔の靴にもう一度足を通すことになる――三百万ドルを引き継ぐんだ、ドウソン、そのうえ年に一万ドルも小遣いにくれるっていうんだよ。だからもう、こわくて、こわくて」

その浮浪者は勢いよく立ち上がると、震える両腕を頭上に突き上げた。そして息を詰まらせ、ひどく取り乱した様子でうめき始めた。

バランスはぐいとその腕を引き、ベンチに座らせた。

「落ち着け!」命じた声音には苛立ちのようなものが滲んでいた。

「まるでひと財産なくしたみたいじゃないか、手に入れるんじゃなくて。一体何がこわいっていうんだ?」

アイドゥはベンチの上で縮こまって震えている。彼はバランスの袖に取りすがった。ブロードウェイから漏れるぼんやりとした明かりのなかでも、遺産を取り逃したばかりの男は、奇妙な恐怖に憑かれたアイドゥの額に浮かぶ汗を見て取ることができた。

「そりゃあ、僕は朝を迎える前に自分の身に何か起こるんじゃないかっていうのがこわいんだ。分からないけどきっと――何か僕から金を遠ざけることが起こるんだよ。木が倒れてくるのがこわい――馬車にひかれるのがこわい。屋根から石が落ちてくるかもしれないし、他にも何が起こるか分かったもんじゃない。今までこんなふうにこわいと思ったことなんてなかった。この公園に座って百もの夜を過ごしたけど、彫像みたいに落ち着いてたんだ、明日の朝飯がどこから手に入るかも分からないっていうのに。でも今は違う。僕は金が大好きなんだよ、ドウソン――神にでもなったように幸せなんだ、金が指の間から溢れるようなときにはさ、皆が僕にぺこぺこするんだよ。音楽やら花やら、上等な服やに取り囲まれるんだ。でも、ゲームオーバーになったって分かってからはちっとも気にならなかった。僕は幸せだったんだよ、ぼろを来て腹を空かせてここに座っていても、噴水の水が跳ねるのを聞いたり、馬車が大通りに向かうのを見ているだけで。それなのにもう一度金に手が届くっていう今――ほんとにすぐそこだ――僕は十二時間も待つなんて耐えられない。降りかかってきそうな危険は五十やそこらあって――目が見えなくなったり、心臓発作とか、もしかしたら世界が終っちゃうのかも、僕が金を――」

  アイドゥはまたぴょんと立ち上がり、金切り声を上げた。人々がベンチの上で身じろぎして視線を寄越し始める。バランスは彼の腕をつかんだ。

「少し歩かないか」なだめるように言う。

「落ち着くんだ。興奮したり、怯える必要なんてない。何も起こったりしないさ。いつも通りの夜だよ」

「そうだな」アイドゥが言った。

「一緒にいてくれ、ドウソン――相棒ってやつだよ。しばらく一緒に歩こう。今までこんなふうに取り乱したことなんてなかったんだ、何回も打ちのめされてきたっていうのに。あんたは、なんとかしてちょっとした飯をちょろまかしたりできませんかね? 僕は参っちゃってて、物乞いどころじゃないんだ」

バランスは連れを先導してがらんとした五番通りまで行き、三十丁目沿いを西に進んで、ブロードウェイへ向かった。「ここでちょっと待っててくれ」と、アイドゥをひっそりとした暗がりに残しておく。彼は馴染みのホテルに入ると、慣れた自信たっぷりの足取りで、ゆったりとバーへと向かった。

「外にかわいそうなやつがいるんだよ、ジミー」バランスはバーテンダーに告げる。

「腹が減ったと言っていてね、見るからにそんなかんじなんだ。でも分かるだろう、こういう手合いに金なんか恵んだらどうなるか。サンドイッチか何か作ってやってくれないかな。投げ捨てたりしないのを見届けるから」

「もちろんですとも、バランスさん」バーテンダーは了承した。「彼らが全員ペテン師ってわけじゃありませんからね。誰かがお腹を空かせているのを見るのは嫌なものです」

彼はたっぷりの無料ランチをナプキンに包んで手渡してくれた。バランスはそれを持って連れのもとへと戻る。アイドゥは飛びついて、がつがつと食べた。 

「この一年、こんなに美味いタダ飯なんて食べたことがないよ」彼は言う。「あんたは食べないのか、ドウソン?」

「腹は減ってないんだ――ありがとう」バランスが答える。

「公園に戻ろう」とアイドゥは持ちかけた。

「あそこなら警察に邪魔されなくて済むから。このハムやなんかは包んでおいて僕らの明日の朝食にしよう。もうこれ以上は食べないでおくよ、病気にでもなっちゃ困るしね。今晩腹痛かなにかで死んだら、二度と金に手が届かなくなっちまう! 弁護士に会うまでまだ十一時間もある。あんたは僕を置いて行かない、そうだろ、ドウソン? 何か起こるかもしれないのがこわいんだよ。どこにも行くところなんてないんだよな?」

「ああ」バランスは応じた。「どこにも行かないさ、今夜は。君と一緒にベンチにいるよ」

「あんたは随分と落ち着いてるんだな」アイドゥは言う。

「もし僕にほんとのことを話してくれたんならだけど。一日で高給取りから浮浪者って立場に置かれた人間は、髪をかきむしっているんじゃないかと思ってたよ」

「さっきも言ったはずだが、」バランスは笑いながら答えた。

「おれもこう思ってたよ。次の日になったら大金が転がり込むっていう人間は、ゆったりくつろいで落ち着いているんじゃないかってね」

「おかしなもんだなあ」アイドゥが哲学でも語るかのように言う。「人間の物事の捉え方ってのは、まったく。さあ、このベンチを使ってくれ、ドウソン。僕のすぐ隣だ。ここなら明かりもまぶしくないだろ。ああそうだ、ドウソン、僕はあのじいさんにあんたの仕事の紹介状を書いてもらうよ、家に帰ったら。あんたは今晩、随分とよくしてくれたからさ。とてもこの夜を乗り越えられたとは思えないんだ、もしあんたと出会ってなかったら」

「どうもありがとう」バランスは言った。「横になるのかい、それとも座ったままなのかい、ベンチで眠るときっていうのは?」

何時間も、バランスはほとんどまばたきもせずに木々の間からのぞく星を見つめ、南へ向かう馬車の馬のひづめがアスファルトの海をたたく鋭い音に耳を傾けていた。頭は冴えていたが、感情は眠ってしまっているようだった。ありとあらゆる感情が消えてしまったかのようにも思えた。後悔もなく、恐怖もなく、苦痛や不安もない。例の女性のことを考えたときでさえ、今見つめているような遠い星のひとつに住むひとのようにしか思えなかった。彼は連れのおかしな言動を思い出してそっと笑ってみたけれど、そこに陽気さはなかった。やがて、いつもの牛乳配達ワゴンの軍団が、街にドラムロールのような音を響かせながら行進を始める。バランスは寝心地の悪いベンチで眠りに落ちた。

翌日の十時、ふたりはアン通りにあるミード弁護士事務所のドアの前に立っていた。アイドゥの動悸は時間が近づくにつれひどくなっていった。そしてバランスは、恐れていたような危険の餌食になるかもしれない彼を残して去る決断ができないでいた。

事務所に入ると、ミードは不思議そうな顔で彼らを見た。ミードとバランスは古くからの友人だった。挨拶ののち、彼がアイドゥのほうに向き直る。アイドゥは顔面蒼白で手足をがたがた震わせながら、これから訪れるだろう危機を目前にして立ち尽くしていた。

「昨日の夜、二通目の手紙を貴方宛てに送ったんですがね、アイドゥさん」彼は切り出した。

「今朝になって、ご不在でお受け取りになっていないことを知りました。そのお知らせというのは、ポールディング氏が貴方に相続権を戻すという申し出を考え直したいとのことでして。結局取りやめることにしたので、おふたりの関係がこれまでと変わらないということをご理解いただきたいということなのですが」

アイドゥの震えがぴたりとやんだ。血の気が顔に戻り、背すじが伸びる。顎は半インチほど前に突き出され、光が目に戻ってくる。使い古した帽子を片手で押し上げると、もう片方の手を伸ばし、指をまっすぐそろえて弁護士に向ける。彼は深く息を吸い込むと、馬鹿にしたように笑った。

「ポールディングのじいさんに伝えてくれ、地獄に落っこっちまえってね!」

大声で高々とそう言い放つと、回れ右をして事務所を出ていく。足取りはしっかりと、生き生きとしていた。

ミードはバランスのほうに踵を返すと、にっこりと微笑んだ。

「来てくれてうれしいよ」彼はにこやかに告げる。

「君のおじさんはすぐにでも戻ってきてほしいそうだ。例のことも考え直していて、早まった判断をしてしまった、ってね。それですべて元通りにしたいと――」

「おい、アダムズくん!」ミードはことばを切って叫び、秘書を呼んだ。

「水を持ってきてくれ――バランスさんが気を失ってしまわれた」