戸山翻訳農場

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2015年

4月

17日

チェーザレ・パヴェーゼ O・ヘンリー論

 O・ヘンリー、あるいは文学的なトリック      チェーザレ・パヴェーゼ[1]

 

 ジャコモ・プランポリーニによるO・ヘンリーの翻訳と選集は、あらためてわたしたちの前に、アメリカ文明の悩ましい性質を提示してみせた。今日に至るまで、この気まぐれなストーリーテラーへのわれわれの扱いはちょっとひどすぎた。挿絵入り雑誌とかそのようなもので何度となく、目新しい情報ほしさに彼の千一夜物語を頼ってきたのだ。そこから、ろくに読みもしないで翻訳し、切り取り、強調することによって、苛立たしくもほとんど没個性的といっていいページを稼ぎつづけた――それは良くも悪くも、われわれの擁するストーリーテラーたちの、退屈でもったいぶった作品のなかに活気を持ち込みはしたのだが。このO・ヘンリーの通俗化が、いささかやりすぎといっていいほどにわれわれのあいだに広めた疑念は――アメリカ、少なくともO・ヘンリーをまとまった量読むことのできる場所でも共有されている傾向なのだが――彼による無尽蔵な発明の輝きのうち、必ずしもすべてが最良の質を誇っているのではないだろう、というものである。というのも、O・ヘンリーは素晴らしい物語をとても多く書いているが、それが二一篇ともなると、「もうたくさんだ!」と叫びたくなるだろうから。

 そう、ある意味では、短編小説家にたいして「もうたくさんだ!」と叫ばないで済ますことができる人間はいない。これらはコレクションという形で提示されるもので、かつてエピグラムやソネットというスタイルにも、そういう面があった。いずれも一度に少しずつ分割して摂取されるべきものなのだ。だがそれとは関係なく、O・ヘンリーにはうんざりだ、と言われるかもしれない。短篇作家としてだけではなく、作家O・ヘンリーとして。彼の物語は、いまや我々にも明らになっているが、爆発するような「落ち」で終わる。人は、それこそ物語が空疎である証拠であり、現実の表面しかなぞっていない証しであり、そこに見出せるだじゃれや逆説は、作家の内面の無益ながらくただと言う。

 ひとまず、「内面」とやらは置いておこうではないか。わたし個人としては、こう断言するのにやぶさかではない――O・ヘンリーを読むことはほとんどいつでも愉しいものだし、そうやって読者が出会うのは、ひときわすぐれた精神と真心で、ちょっとした逸話と警句と冒険を語りつづける、彼自身の書く主人公のひとりのようにウィスキー漬けで生気に満ちた、じつに好感の持てる人物だ。だから、O・ヘンリーが何も生み出していない、どんなキャラクターも――と不平を言う人は、すくなくともこうした点において間違っていることになる。キャラクターはそこにいて、生き生きと喋っているではないか――やりすぎなくらいに。彼はいついかなる時でも話したいことがあり、(常軌を逸して!)ほとんどいつでもうまく語ってのける――そのキャラクターこそがO・ヘンリー、友人からはウィリアム・S・ポーターと呼ばれている人である。作家というのは、もう少し耳を傾けられるべき存在だ。そしてもし誰かがO・ヘンリーにむかって、もっと胸を締めつけられるような人間性を、などと言おうものなら、O・ヘンリーはきっと、もっと楽にしたまえと答えるだろう。というのも、そのような考えに固執してしまうと、ただでさえ少ししかないものを失いかねないし、ありもしないもののためにいらだつことになるからだ。

 なにしろO・ヘンリーは誠実である。自身が生み出すうちでも特に魅力的なキャラクターたちがするように、はったりをかけようとはしない。それどころか、彼による最良の本の最初のページですでに、こう言ってよければ、トリックの種を明かしている――作家の自由といった言葉よりもトリックという言葉がふさわしければいいのだが。

 

芸術と哲学はものの伝え方の点で異なっている(…)物語の技巧においては、主題と関係のない事柄について自分の意見を述べるまでは、読者が知りたいと思っていることを隠すというのが肝心だ。いい物語というのは砂糖にくるまれた苦い薬のようなものだ。僕なら話を、君さえよければ、星占いから始めるよ。

(『キャベツと王様』)

 

さて、このような告白がしかるべきところでなされていて、O・ヘンリーの意図と技術を明らかにしている。まず、彼はモーパッサンやフローベールのように洗練された社会の出身ではなく、それゆえに、人情に関わらない文学、真に迫った文学、原始的な文学の希求などを夢見たりはしない。重要なのは、一方の製法がもう一方のものと比べて好ましい、というのを指摘するのではなく、なんだろうとその人が使っている製法が何かを述べることだ。だが、この段階での比較はきっとO・ヘンリーと他の作家を区別するのに役立つだろう。というのは、あまりにも多くの読者が、彼が第二のモーパッサンでないことに気づくや、彼のことを拒絶するからである。O・ヘンリーは明言する――短編小説というものは、遠回しな物語であり、言葉と構造的なトリックの連なりに見えるがそうともいえないものであり、キャラクターたちの行動への、語り手の絶え間ない言及と脇の演技である。O・ヘンリーは過剰にその姿勢をつらぬくので、先ほどから言っているように、キャラクターのなかでも群を抜いてページの上から読者の目に飛び込んでくるキャラクターは、語り手その人なのである。

 この事実は、一見するよりも深く、複雑な根をもっている。もしO・ヘンリーの小説の読者が、小説が出てきた文化的な背景についてあらためて考えるなら、読者を当惑させていたいろいろなことが明快になるだろう。というのも、この作家の奇妙な生理感覚は彼の生まれた知的な背景によって規定されているからだ。ヨーロッパでもよく知られる、アメリカ文学のある一時代――ポーとエマソンの時代(18301850)――に思いを馳せてみれば、そこは、O・ヘンリーがわれわれに向けて思想を披瀝している場所と全く違う場所だと気づくのではないだろうか。早い時期の作家たちはニューイングランド[2]の中核をにない、ヨーロッパの文化で自らを養い、それを活き活きと変形させる一方で、自国に広がる広大な領域と来るべき多様な人種をすっかり無視していた。そして十七世紀最良の英語の伝統にもとづく磨き抜かれた話し言葉が広がり、作家たちはほとんどの場合、塔に籠って似非科学に思いを巡らした。彼らは、手短に言えば、清教徒の土地における反・清教徒集団となったのであり、貴族的で、孤立していた。

 代わりにO・ヘンリーの時代について考えてみてほしい。ルーズベルト [3]政権が成果を実らせ、アメリカは大西洋から太平洋にかけてひとつの国になり、選ばれた人々が行う征服事業と、そこから得られる富の言い訳としての「清教徒」は必要なくなり、「人種のるつぼ」という概念が受け入れられはじめた。この概念のもとに、アルメニア人も、アフリカ人も、中国人も、アメリカに帰化した。文化の中心はそれ以降アメリカ全体に広がり、結果として権力もまた拡散し、それと同時に若々しく簡潔な――それは貧しさではない――精神が「生命の躍動[4]」を讃える熱狂的な賛美歌を歌っていた(ジャック・ロンドンのことだ)。合衆国のアテネ[5]としてのニューイングランドは、もう存在しなかった。あらたな中心が無数に、様々な種の生命が自由に競い合うように、伝統の壁を取り払って現れだした。カリフォルニアではフランク・ノリス(18701902)とジャック・ロンドン(18761916)が、シカゴではアプトン・シンクレア(18781968)と若きセオドア・ドライサー(18711945)が、ニューヨークでは映画とそしてO・ヘンリーが出現した。ここで重要なのは、この時代の終わりの1912年ごろに、ニューヨークからカリフォルニアへ映画スタジオが移設されたことである。アメリカ全域で、このように文化の流れが交差していた。それ以前の1850年までは、アメリカはふたつの世界に分かれていた。思索し、書きものをするニューイングランドと、我々もよく知る、アレーゲニー山脈からワイオミングそしてテキサスまでの、征服して開拓する西部である。前者は、いささか疑りぶかい文学に通じた貴族たちで、後者は、煙草を吸い、拳で闘う粗野で無教養な清教徒である。

 とはいえここですべてを述べることはしない。ポーからO・ヘンリーにいたる半世紀にわたって、以下のような革命の歴史があったということを述べるにとどめよう。狩りをする人々、坑夫たち、新たな都市、新たな州、南北戦争、ドイツ軍、スウェーデン人、イタリア人、領土征服、産業主義、石油と石炭、トウモロコシ、人生そのもの――こうしたものへの愛情は、もはや単なる空想でも紙の上に記されただけのものでもなかった。以前までのニューイングランドは死んだ。というのも、人々はものを読む方法を忘れ、英語そのものもよくわからなくなっており、ボストンやリッチモンドの洗練された英語などもってのほかで、こう言ってよければ、そうした英語の思想の根底に辿り着くために無駄にする時間もなかったからだ。アメリカ合衆国のゆるぎない芯の部分は、そわそわと考え、探しはじめた。人生そのものを語る作家はいないのだろうか、たんに賭場や競馬場や仕事の熱気「以上」のものを、と。注意しよう――これまで「以上」に語るのであって、「違ったふう」に語るのではないということ。1870年から1910年にかけてアメリカの新聞紙上で成功を収めた新たな短篇群は、ユーモアが基底にあり、いずれもアクションとサスペンスに満ちたものだった。当時のアメリカは、ルナ・パーク[6]で得られる興奮の複製を短編小説に求めた、という巧い言い回しで伝えられてきた。歪んだ鏡、ウォータースライダー、スリル、道化師、手品、笑い、喧噪。その他の場所、とくにアメリカ中西部(イリノイ、インディアナ、ウィスコンシン)では、憂鬱な現実の忠実な複製をいかに生み出すかがあらゆる関心の的であるような沈鬱な小説が出現する。ドライサーはそのような流行のなかで登場したのである。その直後の1900年以降には、社会問題も取り上げる、文学は生活のためにある、というような作品が現れる。党大会、ストライキ、組織、革命(『鉄の踵』、『メトロポリス』[7])などだ。この状況は1912年まで続き、差し迫った問題意識を基盤にひとつの文化的な中心をつくった。だがこれはまた別の話だ。

 そしてついに、これらの文学は「貴公子」O・ヘンリーによって頂点に達し、新たな特徴を獲得する。それは方言の文学である。この方言というのが興味ぶかい。我々イタリア人は、方言と聞くと地域に根付いた言葉を想像し、ニューイングランドという土地に固有の文学を探してしまう。だがアメリカにおける方言とは、学校で教えられる洗練された上流階級の英語と対比される、誰もが話す話し言葉を指している。(あちらで言われるところの)「地方色」はほとんど見られない。なぜか。それはこの話し言葉の若さ、そしてコミュニケーション上の込み入った事情のためである――ある日までニューヨークに住んでいたひとが翌日にはカリフォルニアに移住し、五大湖の周辺に住んでいたひとが、フロリダに移住する、といったような。マーク・トウェインからO・ヘンリーにいたる短編小説に見られる話し言葉的な語りは、彼らが語りかける相手によって規定されている。読者は大衆(ときには坑夫たち)であり、また、日々の新聞紙上で自らを見出し、自身を理解したいと思っている堅実な中産階級の人々だ。彼らに語りかけることが必須となる。なぜなら、マーク・トウェインからO・ヘンリーまで、すべての生きた文学はジャーナリスティックでなくてはならないからだ。

 詩が果実のように熟すことがあるのなら、O・ヘンリーの物語は、その時期の文学の最終形態、熟れきった果実となるに十分すぎるほどふさわしいものだろう。無名の坑夫のリアルな物語がウィットに満ちた話し言葉で語られ、それが平凡な、生きることに疲れた人々を元気づけたのだから。だが、念のために言っておこう。詩は果実のように育まれるものとは言い切れない。長きにわたる選別と接ぎ木を経てこそ、これぞ詩だと言えるものが立ち現れてくる、ということが証明されているわけでもない。だが確かにそのように感じられ、それですべてが説明されているようにさえ見えるということを踏まえて、再び当初の問いかけに戻ろう。O・ヘンリーはほんとうになにかを「生み出した」のだろうか? それともやはり、言葉のもっとも悪い意味で「軽い」「表層的な」「たいした」書き手に過ぎないのだろうか?

 『キャベツと王様』に話を戻そう。この小説はいくつかの物語が集まってできている。物語の背景にあるのは、新たにアメリカに出現した世界主義と帝国主義だ。中央アメリカの小さな共和国アンチュリアがかんたんに転覆してしまう様子が描かれる。転覆の原因はおもに、仰々しい言葉を並べ立てるばかりのスペイン式の政党や、彼らのもつ価値観である。O・ヘンリーの手つきが、題材の扱い方にあらわれる。すべての出来事は基本的に、南米の北岸の浜にある、沢山の小屋と少数の住民で構成される小さな町コラリオから見えるものとして描かれる。そこにはアメリカ領事や、バナナ・ゴム・靴を売るアメリカの貿易商がある。かれらは地元の様々な革命活動を援助して促進させ、分別あるアメリカ国民は自国の政治に対しても時には疑いの目を向けるものだと説く。空と海のあいだにあって神に祝福されているようなけだるい雰囲気が物語に満ちている。どんなことでも起こりそうな雰囲気だが、じっさいには起こらないか、少なくとも事件の痕跡は残らない。大統領の失脚や、キリスト教徒の死をはじめとして、多くの人が失墜し、命を落とすが、小説の空気は常に一定である。つまり、自然は偉大であるということが、さまざまな筋をもつそれぞれのエピソードで明示される。

 O・ヘンリーの悪名高い「欠点」――人物の機械的な行動、物語の描写における知的なトリック――は、この自由度が高くシンプルな筋書きにあって、模範的な方法と感じられる。たとえば、あるふたりの登場人物(政府の資金を横領した逃亡したミラフローレス大統領と女優のイザベル)は、この本のなかで突出して大きな役割を果たしているが、彼らは自分の置かれた状況をまったく分かっていない。そんな彼らが国を逃げ切ることに成功すると、それまで彼らが住んでいた場所にはふたりのアメリカ人が住み着く。この父娘は彼らと同じように、保険会社から資金を横領して自分たちの国から逃げていた――。こうした展開は、一見するとたんなる風変わりなストーリーテラーの思いつきであり、いささか低俗で子どもっぽい大衆の趣味を反映した、最後の最後に起こる思いがけない出来事にすぎないと見える。だがこの本が、トランプで作った城がそうであるように、完全に構築されていると言われた後だったらどうだろう。O・ヘンリー本人がはじめの方で早くも告白してしまったこと以外に、なにか見て取れないだろうか。ここに見られることは、本書を構成する各章の物語にも、O・ヘンリーがこれまで書いてきた短篇群にも見出せる。つまりわたしたちはいつでも、O・ヘンリーの手になる行動の描写のなかに、価値の転倒や逆説、はったりを見つけることができるのだ。

 そしてこの点こそ、批評の骨折りを必要としている要素だ。O・ヘンリーにたいして、機械的な行動のほかになにを期待するのか? いま見てきたような要素は、他のもっとも賞賛を得ている作家たちにとっての欠点のように、O・ヘンリーにとって致命的な欠点となりうる。だがそんな欠点は、作家の意見や、「題材」や、プロットや、構成などに断片的に指摘されるようなものであって、実際には、あるいは本質的には、存在していないに等しい。だから、あらゆる愉しみにおいて必要不可欠な善意をもって、いま問題になっている本を読み返してみよう――このさい、他の数百の短篇群は重要ではない――その善意を少しばかり反映させ、作品が想起させる歴史的な背景にも気を配りながら。そうすれば――わたしは確信するが――ようやくあなたもO・ヘンリーのトリックについて関心を持つようになるだろう。かつてこんなに奇妙で喜ばしい作家がいただろうか? 彼は世界を、人を当惑させるようなものとして理解していて、人生をどう言い表していいかわからないために矛盾に満ちた物語を新たにつくりだすわけではなく、こうした逆説こそ人生の真実だと感じ取っているのだ。

 まとめよう。ある歴史的な背景がO・ヘンリーの持ち味や作風に影響しており、テーマ設定にも影響している。ではどうしてO・ヘンリーはそうしたテーマで詩を、確かな創作物を作らず、つまり多くの人が理想的と思うような生々しい感性が活きるしっかりとした形式に練り上げず、たんなるトリックにとどめ(前述の 『キャベツと王様』における登場人物の置換のように)、人生における奇妙さ、相互関連性、根本的な不合理といった寓話を表現しつづけるのか?

 ミラフローレスとイザベルの冒険の結末は特筆に値する。誤解に助けられ、誤解によって、はるか遠くの土地で、偽りの、ほとんど耐えがたいような生活を送っている。様々に絡み合った語りに結末をもたらすべく、O・ヘンリーは多少なりとも映画的な場面をイメージした。

 

砂の上に書いたこと

 

 場所はニースの砂浜。ひとりの女性がいる。美しく、まだ若く、優雅に着飾り、のんきそうに、ゆったりと水際に横たわり、シルクのパラソルの柄でつれづれに、砂の上に文字を書いている。顔にあらわれているのは奔放な美しさ。彼女のけだるそうな様子は一時的なものだろうと思われる――だから待ち、期待する。彼女が、どういうわけかぴくりともしないヒョウのように、やがては跳ね起きるか、すっと立つか、這いあがるのを。だがまだだるそうに、砂の上に書いている。書く言葉は決まって「イザベル」だ。ひとりの男が数ヤードはなれた場所に坐っている。誰の目にも、ふたりは仲間同士なのだとわかる。彼らのあいだにもう友情は存在しないとしてもだ。彼の表情は暗く、落ちついていて、謎めいているといってもいいが、わざわざ指摘するほどでもない。ふたりは二、三、言葉を交わす。男もまた、ステッキで砂に書く。書かれた言葉は「アンチュリア」。それから顔を上げ、地中海と空が混ざりあうところを見るその目には、死の気配が宿っている。

 

 とりたてて深く考えさせられる場面とは思えないが、いっぽうで行動にひそむたくらみ(トリック)の重要性は増している。再三、O・ヘンリーの物語は人間や彼らの行動を、ユーモアを込めて様式化している。言い換えれば、場面の理解のされ方、意見の披瀝の仕方、出来事の扱われる彼の「哲学」が独特なのだ。

 いよいよO・ヘンリーの「内面」についての問いの核心に辿り着いた。わたしとしては、行動にひそむトリックを指摘したことでこの問いにはすでに答えたつもりだが――多くの人はいまだに、とくにアメリカにおいては、行動と登場人物、登場人物と形式、形式と内容を乱暴に区別している。それならば最初に戻って、O・ヘンリーをアメリカの宵っ張りとして考えてみよう。彼は持ち前のユーモア感覚でアメリカ国内外に息づき、愉快な逸話を蓄えておくことで、洗練とはほど遠い仕方で物語を喋り倒すことができ、脚はテーブルの下にしまい、彼の存在感はジョークに、そして上質なユーモアに満ちたパラドックスに凝縮され、ときに友情や、哀しみや、ちょっとした犠牲の精神に心を動かされている。こうしたものだけが、我々の前に姿を見せたO・ヘンリーの「内面」なのだ。

 O・ヘンリーが描くすべての主人公は、我々が気づいているように、ニューヨークの出か、O・ヘンリーと同じく地方出身で、合衆国全土で徒弟関係を結んだあとに、経験と辛抱強さを得てオールド・マンハッタンに居を構えるような人々だ。こうした人たちはもちろん、心理学に利用される記念碑でも、情熱を燃やすための薪でもない。彼らを描写する言葉、語りのトーン、やさしく親密な回想、すべてが一緒になって物語全体の均衡を崩そうとし、O・ヘンリー的事件の上に影を落としている。それは冗談と、冗談についての彼の「哲学」である――それは言葉の通常の意味では、創造するというぜいたくからはほど遠い。かわりに会話というふるまいを考えれば、O・ヘンリーの性質を明らかにできるだろう。彼は筆を走らせ、手を止める。それから耳を傾けている相手の方を見て、関係する記憶を探り、ウインクして、身ぶりを交え、くわえた煙草の位置を変え、また筆を走らせる。というのも、O・ヘンリーには登場人物を「人類社会」の名のもとに描写する狙いはないのだ。彼の傾向というのは単純に、もっとも率直で、まったく衒学的でない方法で、記憶にあるなかでもとりわけ突拍子もなく、好奇心をそそる、矛盾に満ちた思い出を表現する傾向だ。彼の物語芸術すべてを理解し、包括するための唯一の原則がこれである――知性にうったえる、めずらしく、風変わりで、奇妙ななにかを提示するために必要なものを知っていること。

 これより他に、登場人物たちを総括できる法はない。彼の物語に出てくるのは、浮浪者、やさしい顔をした詐欺師、ふさぎ込んだ紳士、飲んだくれ、内気な若い娘、没落貴族、政治家、道徳をわきまえた娼婦、とてつもなく意地の悪い若妻、暗殺者。彼らはアメリカのるつぼにおける浮きかすであり花である。だが、アルコールによる至福や怠惰も、O・ヘンリー的世界において右に並ぶものがないほどおなじみのモチーフであるにもかかわらず、これらのキャラクターを包括するのに十分ではない。彼らの本当の類似性とは、彼らの奇妙さと、彼らの見舞われる事件のおかしさ――ときに哀しく、でもたいていは愉快で、多少なりとも諦念がある――のみに見出せるものだ。例を挙げよう。ひとりの酔っぱらった男が、ニューヨークに冬がやってくるのを感じ、ベンチで寝るのをやめて、機転をきかせて生きようと考える。どうするのか? 逮捕してもらうのだ。そうすればスタテンアイランド[8]で三ヶ月間過ごせる。安全と休息が手に入る。どうやって逮捕されようか? 彼はホテルで無銭飲食する。だが誰も通報したり、打ち据えたりしない。とある店の窓ガラスを割って自分がやったと暴露する。だが誰も信じない。女性に乱暴しようとする。彼女にはまったく問題なし! 夕方になる。「成功できなかった男」はがっかりして通りを歩き、教会の前で立ち止まる。オルガンの音が聞こえる。やさしい思いが頭に流れ込んでくる。子ども時代、幻想、惨めな現在。彼は心を決める。明日から働いて、生活を立て直そう。そのとき、警官が彼を見つけ、身元確認もなしに逮捕してしまう。こうして、三ヶ月間の「休暇」をスタテンアイランドで過ごしましたとさ。このような話には枚挙にいとまがない。もう胸を張って宣言してもかまうまい。O・ヘンリーという男はたしかに存在していて、彼を見出せるのは、このように矛盾した状況からくる、アイロニカルで、少し哀しい感覚のなかだけである。

 短編小説にたいするこうした考え方――彼の短篇はいわば、なんらかの偶然についてのバーでの雑談である――にしたがえば、ひとかたまりの物語としてより、それぞれの細部を評価するほうがたやすいということになる。ひとつの偽ものじみたイメージ、ひとつの感嘆、ひとつの場面――これは「表面的な行動の描写」に加えて、O・ヘンリーの欠点だと言われそうだ。表現リストを簡単につくれるところが。説明的な表現、活気のある表現、均整のとれた表現、そしてきわめて優れた形容句。これらの唯一の欠点は、あまりにも楽々と取り外し、まとめられることだ。だがそんな表面的な表現の一つひとつから、最上の至福が得られるのだ! そんな細部は本の出だしから見つかり、わたしは空飛ぶ小さな虫を見つけたあとで、あらためてわざわざ大物を狙おうとは思わない。O・ヘンリーのユーモアは、真の意味で「方言」によって生み出されるユーモアだ。あとから製造された言語には、これほど激しくて絶え間ないフレーズと言葉の奔流を支えることはできない。この点において、O・ヘンリーは真にアメリカのフランソワ・ラブレー[9]だ。また文章の持ち味を見ても、ともに博学であると同時に大衆的でもあり、成り行きまかせで、楽しく生きている――ラブレーが暮らしたドゥヴィニエー、O・ヘンリー的な酒屋――は、互いに似通ったところがある。

 

 ラブレーが、なにかの創始者というよりも、ファブリオ [10]になくてはならない、ガリア人の伝統たる道化師の末裔に見えたのと同じように、O・ヘンリーもまた、アメリカの中編小説また短編小説の、屈託のない青春期を締めくくった。このジャンル(もう一度ジャンルについてお話させていただきたい)は、坑夫たちが読む新聞で活躍した初期のユーモリストたちとともに生まれた。最初に勝利をおさめたのは方言で書くしゃれ好きの作家たちで、なかにはアルテマス・ウォード[11]のように特記に値する人物がいた。マーク・トウェインとブレット・ハート(18361902)はさらに先へ進み、彼ら開拓者としての自負を持った作家たちによって、新たな文学はニューイングランドから全国に広がった。O・ヘンリーの時代には、誰もが短篇を書いていた。このジャンルはおのずと豊かになっていった。それはもはや、ちょっとユーモラスでちょっとセンチメンタルな小話などではなく、たとえばアンブローズ・ビアス(18421914?)はあのエドガー・アラン・ポーとジャック・ロンドンを模倣しようとしていた――ジャック・ロンドンがなにをしているかは誰もが知っている。

 O・ヘンリーが自身のトーンを見出したとき、彼は類いまれな庇護と時宜を得ていた。当時の作家たちのなかでも、彼は全国の新聞で読者に語りかけるのにもっとも適した人物だった。彼が切り開いた、奇妙さとコスモポリタンという特質は、そのジャンル内という限定された範囲のなかではあったが、あらゆる短編小説が新たな地平において実現した試みを包括する標語となった。そしてもし、ラブレーがそうだったように、O・ヘンリーがひとつの時代を終わらせ、その流れはもう誰にも止められず、それとはまた別の流れさえ起こっているとしてもなお、O・ヘンリーが沢山の方法で提示し正当化した独特な言語と表情豊かなアメリカの精神は、彼自身をたやすく忘却から救うだろう。じっさい、O・ヘンリーにつづく世代の書き手たち――セオドア・ドライサー、ヴェイチェル・リンゼイ(18791921)、エドガー・リー・マスターズ(18681950)、カール・サンドバーグ(18781967)、C・S・ルイス(18981963)、シャーウッド・アンダソン(18761941)――は彼の教えを忘れていない。彼らの作品におけるアメリカ合衆国の解釈と再創造は、そのスケールの大きな言語的な革命をひとつの完成に導くだろうし、その完成品を意識して使えば、まちがいなくこれからの知性の探求に役立つだろう。

(訳:川野太郎)


[1] イタリアの小説家・詩人(19081950)。英米文学に強い関心を示し、多くのすぐれた翻訳を残した。反ファシズム活動のために1935年から三年間、抑留刑。代表作に詩集『働き疲れて』(1936)、小説『月と篝火』(1950)など。トリノで自殺。

[2] アメリカ北東部の六州(コネチカット、マサチューセッツ、ロードアイランド、ヴァーモント、ニューハンプシャー、メイン)をさす。

[3] セオドア・ルーズベルト。アメリカ合衆国第二十六代大統領で、任期は1901年から1909年。

[4] フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの自然哲学の概念のひとつ。

[5] ギリシアの首都。古代ギリシア文明の中心地である。

[6] ニューヨークのコニー・アイランドにある遊園地。

[7] 『鉄の踵』(ジャック・ロンドン)、『メトロポリス』(テア・フォン・ハルボウ)。ともに、労働者と支配階級の逃走を描いた小説。

[8] これはパヴェーゼの思い違いで、ブラックウェルズ・アイランド。作品は「警官と賛美歌」。

[9] 十六世紀フランスの作家。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』など。

[10]主に十三世紀フランスで書かれた、風刺的で滑稽な小話。

[11]十九世紀に人気のあったユーモア作家で、トウェインも影響をうけた。本名チャールズ・ファーラー・ブラウン。