戸山翻訳農場

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2016年

3月

01日

ネメシスと菓子売り               訳:片野雄太郎

ネメシス[1]と菓子売り

 

「私たち、朝の八時にセルティック号で出航するのよ」と言いながらオノリアは、ほつれた糸をレースの袖からむしり取った。

「そう聞いてね」と若きアイヴスは言って、帽子を落とし、掴みそこね、「挨拶に来たんだ。良い航海を」

「そうね、聞いたんでしょう」オノリアは言った、冷やかに甘ったるく、「あなたとお話しする機会はなかったもの」

 アイヴスは彼女に目を向けた、すがりつくように、しかし望みは薄かった。

 外の通りから甲高い声がした。音楽的と言えなくもない、商売人らしい名調子。「キャンディィィ!おいしい、できたての、キャンディだよぉぉぉ!」

「いつものお菓子売りだわ」オノリアはそう言うと、窓から身を乗り出して手招きした。「あの人のモットー・キス[2]が欲しいわ。ブロードウェイあたりのお店のものより何倍も良いんだから」

 菓子売りの男は手押し車をマディソン街の家の前で止めた。休日とお祭りが一緒に来たかのような雰囲気で、物売りには似つかわしくない。ネクタイは新品で真っ赤に輝き、蹄鉄型のタイピンはほとんど実物大で、ぼこぼこの表面が派手にぎらぎらしている。色黒で薄っぺらい顔にはしわが寄り、ちょっと間抜けな笑みを作っている。縞柄のカフスには犬の頭のボタンが留められ、日に焼けた手首を包んでいた。

「あの人、結婚する気なんだわ」オノリアは言った、憐れみをこめて。「あんな風なの見たことないもの。何カ月かぶりよ、大声出して売っているなんて。間違いないわ」

 アイヴスは歩道にコインを放った。菓子売りは客というものを知っている。彼は紙袋をいっぱいにし、古風な玄関口の階段を上がり、差し出した。

「そういえば前に――」とアイヴスが言う。

「待って」とオノリア。

 彼女は書き物机の抽斗から小さな書類ファイルを取り出し、さらにそのファイルから、縦四分の一インチ、横二インチの薄い紙きれを抜き出した。

「これよ」オノリアは言った、毅然として、「私たちが初めて開けたキャンディに包まれていたもの」

「一年前だったね」アイヴスは申し訳なさそうに言って、手を伸ばした。

 

   空の青さが続くかぎり

   君に贈るは愛のちぎり

 

 こんな文句だった、彼が薄い紙きれから読んだのは。

「私たち、二週間前に出航するはずだったのよね」オノリアは言った、他人事みたいに。「暖かい夏ね。町には全然人がいない。行くところもない。でも一つ二つ愉快な屋上庭園があるとは聞いたわ。歌が――それに踊りも――そこでは評判なんだそうね」

 アイヴスはたじろがなかった。リングに立った以上は、敵に多少あばらを小突かれても驚きはしない。

「あのとき僕は菓子売りの男を追いかけて」アイヴスは言った、話を逸らすようにして、「それで彼に五ドルあげたんだ、ブロードウェイの角でね」

 アイヴスはオノリアの膝にある紙袋に手を伸ばし、四角く包まれたお菓子のひとつを取り出して、ゆっくりと開いた。

「サラ・チリングワースのお父さまが娘にあげたのはね」オノリアは言った、「自動車よ」

「読んでごらん」そう言ってアイヴスは、四角いキャンディに巻かれていた紙きれを手渡した。

 

   人生が教えるのは――生きるすべ

   愛が教えるのは――赦すこと

 

 オノリアの頬はピンクに染まった。

「オノリア!」アイヴスは大きな声を出して、椅子から跳ね上がった。

「クリントンさんでしょ」オノリアは訂正して、まるで波間から姿を現したヴィーナスのごとくすっくと立ち上がった。「言ったはずよ、もう気安く名前で呼ばないでって」

「オノリア」アイヴスは繰り返した、「聞いてくれ。許されるようなことじゃないのは分かってる、でもお願いだ。人間には良心じゃどうにもならない狂気に取り憑かれるときがあるんだ。君以外はすべて放り投げるよ。僕を縛っていた鎖も断ち切るよ。僕を誘惑したあの魔女とも縁を切るよ。菓子売りから買ったこの詩と一緒にお願いする。君しか愛せないんだ。君の愛に免じて許してくれ。誓うよ、僕の愛のちぎりは『空の青さが続くかぎり』だと」

 

  ウエストサイド、六番街と七番街のあいだ、一本の路地が街区の中程を切り分けるようにして通っている。路地は街区の中心まで伸びたところで途絶える。その一角はまるで演劇の舞台だ。住人は数多の国から溢れ出したあぶく。空気はボヘミアン、言語は様々、土地柄は不安定。

 その路地の突き当たりの穴倉みたいなところに菓子売りの男は住んでいた。七時に手押し車を押して狭い入口から入ってくると、でこぼこした敷石の上に停めて、ハンドルの一方に腰かけてすずんだ。そこはひんやりとした心地よい風の通り道になっていた。

 窓がひとつ、彼がいつも手押し車を停める場所の真上にあった。午後の涼しいひととき、マドモアゼル・アデールというエアリアル・ルーフ・ガーデンの人気のショーガールが、その窓辺に腰を下ろして風に当たっていた。普段から豊かな暗褐色の髪を下ろしていて、風も至福のうちにメイドのシドニーを手助けし、髪を乾かしなびかせているのかもしれない。肩のあたり――写真家たちがいつも一番狙うところ――にゆったりとひだを作っていたのは薄紫色のスカーフ。二の腕はむき出しで――そこを褒める彫刻家はあの界隈にはいないが――路地を囲む壁の鈍感なレンガですら、その美しさを否定するほど無神経ではないはずだ。彼女がこうして座っている間に、フェリスというもう一人のメイドが洗い清めている足は、きらきらと輝いて、夜な夜なエアリアルの観客を魅了するのだった。

 徐々にマドモアゼルは、窓の下で菓子売りの男が額を拭い涼んでいるのに気がつくようになった。メイドたちに身を委ねていたため、彼女はしばし自分の天職――戦意をみなぎらせた男を魅了し虜にする使命――を奪われていた。時間を無駄にするのがマドモアゼルは嫌だった。そんなところに現れたのが菓子売りの男――彼女の狙うような獲物ではない、まったく――でも男ではあるから、彼女が戦うよう定められた生き物なのにはちがいない。

 見て見ないふりの冷たい視線を十回ほど投げかけた挙句、ある日の午後に彼女は突然態度を和らげ、微笑みを浴びせかけたので、手押し車に積まれた菓子まで赤面した。

「お菓子屋さん」彼女は言った、甘えるように。その突然の攻めにシドニーは付いていって、豊かな褐色の髪を梳かし続ける、「わたし、美しいと思わない?」

 菓子売りは耳障りな声で笑い、目を上げて、尖った顎を引き締め、額を赤と青のハンカチで拭った。

「あんた、男性誌の表紙になれるぜ」彼は言った、うっとうしそうに。「美しいのが一番だって言うヤツらもいる。おれはそっちの専門じゃねえよ。花束が欲しいならよそでやりな、九時から十二時くらいにでも。雨が降ると思うよ」

 まさしく、菓子売りを誘惑するのは深い雪の中でウサギを狩るようなものだ。しかしハンターとしての彼女の血はいっきに(たぎ)る。マドモアゼルは大きくカールさせた髪をシドニーの手からもぎ取ると、窓の外に垂らした。

「お菓子屋さん、あなたの恋人にこんなに長くて柔らかい髪の持ち主がいて?こんなにふっくらした腕の?」彼女は腕を、命を吹き込まれたガラテア[3]のように窓辺から差し出した。

 菓子売りは甲高い声でキッキッと笑い、崩れていたバタースコッチキャンディーの山を積み直した。

「けむてえこと言ってんじゃねえ!」彼は言った、口汚く。「褒めてやったりなんてできねえよ。おれは頭いいからよぉ、髪の毛にもマッサージしたての腕なんかにも騙されねえ。そりゃあ、あんたはカルシウムライト[4]の下じゃキレイに見えるんだろうよ、分厚く化粧もしてるし、オーケストラに『りんごの木の下で』を演ってもらえるしな。でもよしてくれ、帽子かぶって、下までおれを追っかけてきて、一緒に〈角を曲がったところの小さな教会〉に飛び込もうなんてよぉ。まえから染髪剤やメイク箱は好きじゃねえんだ。まあ、冗談は置いといて――雨が降ると思わねえかい?」

「お菓子屋さん」マドモアゼルは言った、優しく。口の端をキュッと上げ、えくぼを作って、「わたしのこと、可愛いと思わないの?」

 菓子売りはニヤッと笑った。

「さては金をケチってんだな、あんた」と彼は言った。「そんな風に自分で宣伝係までやって。煙草は吸うけど、五セント箱にあんたのツラが描かれてるのは見たことねえよ。新しい女が広告になると買うんだけどねおれは、どっちみち。煙草の女たちのことならおれは、櫛から靴ひもまでよく知ってんだ。おれが欲しいのは一日の素晴らしい売り上げと、七時の玉ねぎのせステーキと、ここに帰って一服しながら読む夕刊くらいで、リリアン・ラッセルさま[5]にわざわざウインクして頂こうとは思わんね、信じられねえだろうけど」

 マドモアゼルはふくれっつらになった。

「お菓子屋さん」彼女は言った、優しく落ち着いた声で、「でもあなたきっとおっしゃるわ、美しいって。男の方は皆さんおっしゃるの、きっとあなたもそうよ」

 菓子売りは笑って、パイプを取り出した。

「さて」と彼は言い、「そろそろ帰らねえとなあ。おれが読んでる夕刊にこんな

話があるよ。男たちが宝物を求めて海に飛び込んだ、海賊たちは岩場の陰からヤツらを見てる。そんでな、そこには一人も女はいねえんだ、陸にも海にも空にも。ごきげんよう」それから彼は手押し車を押して、路地の奥、カビ臭い住処へと戻っていった。

 女という生き物をわかっていない彼にしてみれば信じがたいことだったが、マドモアゼルは毎日窓辺に座り、網を広げてこの不躾な獲物を狙うのだった。一度なんて、ジェントルマンを応接部屋に三十分も待たせたまま、菓子売りの固いアタマを壊してやろうとむなしく試みた。彼の荒い笑いは、彼女の虚栄心を芯までひりつかせた。来る日も来る日も、彼は手押し車に腰かけて、彼女の髪を引き立てるそよ風を浴びていたが、来る日も来る日も、彼女の美が放つ矢は彼の鈍感な胸に跳ね返された、あえなく、むなしく。そんなあるまじき扱いに彼女は憤り、その目はさらに輝いた。誇りを傷つけられて、彼をじっと見つめるそのまなざしには、彼女を崇拝する者たちを有頂天にさせてしまうようなものがあった。菓子売りの無情な目に見え隠れする嘲りに駆り立てられて、彼女は美という矢筒の中で最も鋭い矢を手に取った。

 ある日の午後、彼女は窓辺から大きく身を乗り出していたが、今度は彼を挑発したりいじめたりはしなかった、いつもと違って。

「お菓子屋さん」彼女は言った。「立ち上がって、じっと私の目を見て」

 彼は立ち上がってじっと彼女の目を見た、のこぎりで木を切るときのような耳障りな声を上げながら。彼はパイプを取り出して、いじくりまわし、それからポケットに戻した。手が震えていた。

「それでいいのよ」マドモアゼルは言った、ゆっくりと微笑んで。「マッサージに行かなくちゃ。ごきげんよう」

 翌日の午後七時、菓子売りは帰ってきて、手押し車を窓の下に置いた。だが、これがあの菓子売りだろうか?服はぴかぴか新品のチェック柄。ネクタイは燃えるような赤、それを飾る煌めく蹄鉄型のタイピンはほぼ実物大。靴は磨かれている。日に焼けた頬はきれいで、手も洗ってある。窓は空っぽだったので、彼はその下で鼻を上げて待った。犬が骨を欲しがるように。

 マドモアゼルが現れた、髪の束を抱えたシドニーを従えて。彼女は菓子売りを見てゆっくりと微笑んだが、だんだんとアンニュイな表情に変わった。瞬時に、獲物が掛かったことが分かったのだ。すると、急速に狩りに飽きてしまった。彼女はシドニーに向かって話を始めた。

「いい天気だったね」菓子売りは言った、おそるおそる。「ここ一カ月で初めてだよ、こんなに良い気分になったのは。マディソン街まで行って働いてきたよ、昔みてえに大声あげてね。明日は雨が降るんじゃねえかい?」

 マドモアゼルはふっくらとした両腕を窓枠のクッションに置き、その上に顎を乗せてえくぼを作った。

「お菓子屋さん」彼女は言った、優しく。「私のこと好きじゃないの?」

 菓子売りは立ち上がってレンガの壁に身をもたせかけた。

「お嬢さん」彼は言った、声を詰まらせて。「おれは八〇〇ドル貯めてんだ。あんたが美しくねえなんて言ったかい?受け取ってくれ、全部やるから、あんたの犬に首輪を買ってやってくれよ」

 百個の銀鈴が鳴るような音がマドモアゼルの部屋に響いた。その笑いは路地を満たし、奥の突き当たりのねぐらにまでおよんだ。太陽の光ですらそこまで届くことはめったになかった。マドモアゼルはご満悦だ。シドニーはすかさず調子を合わせ、陰気だが敬虔なアルトで応じた。二人の笑い声はついに菓子売りを突き刺したようだった。彼は手の先で蹄鉄型のタイピンをいじくりまわした。やがてマドモアゼルはすっかり笑い疲れ、赤みの差した美しい顔を窓に向けた。

「お菓子屋さん」彼女は言った。「もう行って。笑うとシドニーが髪を引っ張るのよ。あんたがそこにいると笑いが止まらないわ」

「マドモアゼルにお手紙です」フェリスが言って、窓のところまでやって来た。

「こんなのおかしいよ」菓子売りは言って、手押し車のハンドルを持ち上げ、歩き去って行った。

 三ヤードほど進んで、彼は立ち止まった。大きな悲鳴につぐ悲鳴がマドモアゼルの窓から聞こえたのだ。彼はすぐに駆け寄った。体がドシンと床を打ち、両足が交互に踏み鳴らされるような音が聞こえた。

「どうしたってんだ?」彼は叫んだ。

 シドニーの切羽詰まった顔が窓から出てきた。

「お嬢さまが悪い知らせに打ちひしがれておられます」彼女は言った。「お嬢さまの心から愛しておられた方が旅立たれてしまうのです――あなたも知っているかもしれないわ――ムッシュー・アイヴスが。明日出航するそうです。ああ、何てこと!」

 

 

1]ギリシア神話に登場する「義憤」の女神。神に無礼を働いた人間に対する罪の擬人化。

2]紙に包まれたお菓子で、愛について読んだ詩や格言などが書かれた小さな紙切れが入っている。

3]ギリシア神話に登場する女性で、「乳白色の肌を持つ者」の意。 

4]石灰光の照明装置。石灰製の棒または酸水素炎に当てて生ずる強烈な白光。舞台のスポットライトに用いた。

5]リリアン・ラッセル(1860-1922)。十九世紀後半から二十世紀前半にかけて活躍したアメリカの女優、歌手。その美貌やスタイル、声質やステージ上での存在感などで知られた。