戸山翻訳農場

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THE BOOK OF MY LIVES by Aleksandar Hemon              有好宏文

 1992年、アレクサンダル・ヘモン(Aleksandar Hemon1964年—)がシカゴを訪れていた時、彼の故郷ボスニアで戦争が始まった。ユーゴスラビア内戦である。ボスニアの首都サラエボは、セルビア人勢力によって包囲され、彼は帰れなくなった。28歳。仕方なく、そのままシカゴに住み始め、日常会話程度しかできなかった英語で作品を書くと決めた。教科書として彼はナボコフの『ロリータ』を選び、常に辞書を引いて英語を覚えていった。アルバイトで食いつなぎながら大学院で英文学を学び、2000年には短編集The Question of Brunoを発表。2004年には「天才助成金」として知られるマッカーサー賞を受けた。その後も作品を書き続け、現在もシカゴに暮らしている。日本でも、彼の第一長編『ノーホエア・マン』と短編集『愛と障害』(いずれも岩本正恵・訳、白水社)が翻訳されている。

 

 THE BOOK OF MY LIVESは、サラエボとシカゴ、二つの都市での人生を振り返り、二つの「故郷」への思い入れを綴った初めてのノン・フィクションである。これまでにThe New YorkerGrantaThe New York Timesなどの文芸誌や新聞に発表した文章を集め、新たに1章を書き下ろして加え、全16章とした。内戦の前と後に分断された人生、ボスニア人としての人生とアメリカ人としての人生、そうした複数の人生を生きているから、ヘモンは自分の人生を単数形の”Life”ではなく、複数形の”Lives”と呼ぶのだ、とインタビューで語っている。[i]

タイトルを見て思い出すのは、スティングの楽曲The Book Of My Life。そういえば、『ノーホエア・マン』もビートルズのNowhere Manだし(故郷を失ったヘモンはまさにNowhere Man)、『愛と障害』には「天国への階段」(Stairway to Heaven)なんて短編も入っている。ロック好きのヘモンらしいタイトルである。

 では、一見あっさりしているけれども様々な意味が込められた本書のタイトルを、どう訳そうか。あっさりと『僕の人生の本』としてしまう訳にはいかないし、『僕の人生たちの本』というのもおかしい。どうにも、訳せない。

 巻末につけられた目次・初出一覧も変わっていて、”Table of Discontents”とある。普通、英語で目次といえば、”Table of Contents””Contents”というのは、日本語でも「コンテンツ」と言うように「中身」という意味なのだが、そのほかに「満足」という意味もある。そこに否定を示す接頭辞”dis-"がつくことで、「不満」という意味になる。この本に収められたそれぞれのエピソード(つまり、彼の人生)が様々な境遇への不満に満ちている。それで、”Table of Discontents”。しゃれている。訳すとすれば、「不満一覧」とか。これでは全然、しゃれていない。

 

 ヘモンは、幼少期のサラエボでの暮らしから語り始める。

初めに強い印象を残すのが、少年時代のrajaの話。rajaというのは、悪ガキのグループといったところで、彼が育った70年代のサラエボでは、少年たちの生活の中心だったそうだ。たいていのrajaは、住んでいる地区や集合住宅などの単位で構成されている。ヘモンが属していたのは、小さくて弱いrajaだった。彼らは「公園」という名前で呼んでいた公園に集う少年たちで、公園の茂みが彼らの基地だった。彼らはサッカーをして過ごし、他のrajaが攻め込んでくれば戦って縄張りを守った。ヘモンは、学校にいる時と本を読んでいる時以外は、ずっとrajaのための活動をした。セルビア正教徒、カトリック教徒、イスラム教徒が交ざりあい、さまざまな民族的なアイデンティティを持つ人たちがともに暮らすバルカン半島のサラエボ。しかし、rajaでは誰も民族や宗教の違いを気にしなかった。

 

 ボスニア。日本からは遠く離れた、バルカン半島にいくつかある国のどれか。子どもの頃、テレビで内戦の映像が流れていた、旧ユーゴスラビアの国。白地図を渡されて、正確に選べる自信がなかった国。そんな国の一角が、彼の文章を読んでいると、一気に、子供時代に遊んだ自分の家の近所の公園になっていく。ブランコと鉄棒の間をゴールに見立ててサッカーをした近所の公園。雨に濡れてからバリバリに乾いたヌード雑誌を拾って、友達と隠れて読んだ近所の河川敷の秘密基地。

 しかし、そんな懐かしい故郷や友達が、内戦で壊されていく。そして、故郷を失ったヘモンは、シカゴで暮らし始める。

 

この町で、僕は、自分の身を置ける人間的つながりを持っていなかった。僕のサラエボ、あの町はそれ以前も僕の中に存在していたし、相変わらず僕の中に存在したまま、包囲され、破壊されていった。僕が故郷を追われたことは、フィジカル(物理的)であるのと全く同じくらい、メタ・フィジカル(形而上的)でもあった。それでも、どこでもないところで生きることはできない。僕はシカゴに対して、サラエボから得ていたのと同じものを求めた。魂の置き場所である。

 

 ヘモンはとりわけ、アメリカでサッカーができないことに苦しめられた。サッカーをすることは、真に生きることと密接に関わっていた。しかし、サラエボにいた時のようにプレーできる環境はなかった。そうして3年間、サッカーをしないまま過ごした。この期間は、英語で思うように表現できず、言葉を失っていた時期とも重なっている。

 

そんな1995年の夏の土曜日、湖の脇の広場でボールを蹴りながらウォーミングアップしている人たちをみつけた。迷わず参加を申し出た。そして、膝丈のジーンズにバスケット・シューズのまま、足の裏に水ぶくれができるまでプレーした。

 彼らは毎週土曜日にそこに集まり、ゴミ箱に板を載せてトロフィー台を作り、様々な国旗を掲げ、スペイン語のラジオをかけて、サッカーをしていた。出身地はメキシコ、ホンジュラス、エルサルバドル、ペルー、チリ、コロンビア、ベリーズ、ブラジル、ジャマイカ、ナイジェリア、ソマリア、エチオピア、セネガル、エリトリア、ガーナ、カメルーン、モロッコ、アルジェリア、ヨルダン、フランス、スペイン、ルーマニア、ブルガリア、ボスニア、アメリカ合衆国、ウクライナ、ロシア、フランス、ベトナム、韓国、チベット……。彼ら移民たちは、自分たちで決めたルールに従ってプレーした。自分たちは今でも、アメリカ合衆国よりももっと大きな世界の一部なのだと感じていた。みんなが、それぞれの国にちなんだニックネームで呼びあった。ヘモンは<ボスニア>。<コロンビア>と<ルーマニア>と共にミッドフィールダーを務めた。初めて、この国で暮らしていけると感じた。

 

 少年時代のraja、アメリカでのサッカー。いずれも民族や国籍にとらわれず、人がつながっている場所だ。民族主義的なナショナリズムによって故郷が破壊されたヘモンが理想とする共同体の芽のようなものが、ここにあるような気がする。

 

 

サラエボとシカゴという二つの町を巡る人生を本書の初めから辿ってきた読者は、最終章The Aquariumが全く違った雰囲気を持っていることに気がつく。それは、生後9か月の娘Isabelが、脳腫瘍の摘出後に亡くなったエピソードを綴ったエッセイである。

この章は、決して感傷的に描かれてはいない。ヘモンは自分が悲しみや感傷に浸ることを許さない。親なら目を背けてしまいたくなるであろう状況で、ヘモンはそこで起こる出来事を見つめ続け、細部を語り続ける。Isabelが亡くなる直前から、彼女の姉Ellaが、架空の兄Mingus(彼の外見は風船みたいに膨らませられる宇宙人の人形)を作り上げ、彼の物語を語り始める。ヘモンはその物語を冷静に分析していく。目を背けずに娘の死を描くのは、Ellaが架空の兄の物語をすることで自分を守ったのと全く同じく、自分自身を治癒するためなのだと、ヘモンはわかっている。このエッセイは、ただ涙を誘うだけではない。ここには、物語るという行為の根本に触れる何かがある。

 

物語的想像力――そして結果としてのフィクション――は生き延びるために人間が進化の過程で得た基本的な道具なのだ。僕たちは物語をすることで世界を前に進め、想像上の自分と関わることを通して、人類の知を作り出していく。

 

 ヘモンが英語を学んだテキストの有名な冒頭は、こう始まる。

“Lolita, light of my life”

「ロリータ、我が命の光」(若島正・訳、新潮文庫)

”Life”には、「人生」や「生活」のほかに、「命」という意味もある。複数形の”Lives”には、彼の複数の「人生たち」の他に、娘の「命」も含まれるのだ。そして、本書は亡きIsabelに捧げられている("FOR ISABEL,forever breathing on my chest")。ますます、訳すのが難しくなっていく。

 


[i] 早稲田文学2014年冬号「対談 文学という都市をつくる」