戸山翻訳農場

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Fates and Furies by Lauren Groff                              片野 雄太郎

“もっとも重要なアメリカ的経験は、女に裏切られることである”

 

 アメリカのフェミニスト、ジュディス・フェッタリーはこのように語る。曰く、『リップ・ヴァン・ウィンクル』に始まるアメリカ文学はその発生の瞬間からミソジナスであり、「成熟を拒絶して現状に留まろうとする男と、その心地良い状態を破壊する女」という説話原型が延々と受け継がれている、と。彼女の指摘に従えば、『グレート・ギャッツビー』も『ロリータ』も『長いお別れ』も、この原型に当てはめることができるだろう。アメリカ文学は女を徹底的に嫌悪し続け、フェミニストたちの恰好の攻撃対象としてその身を批判の風雨にさらし続けてきた。

 本作Fates and Furiesに関して言えば、一見すると、フェッタリーが提示したアメリカ文学の系譜をそのままなぞったような作品に思える。主人公の二人はそれぞれ、成熟を拒絶する男と、その快楽から男を引きずり出す女、という自身の役割を忠実にこなし、後半の全てを使った、女による壮大な裏切りが展開される。しかし、本作が幾多の“伝統的な”女性嫌悪のアメリカ文学と趣を異にするのは、物語それ自身が男を貶めることを志向せず、また同時に、女の邪悪さをあぶり出すことにも向けられていない点にある。主人公の男女は両者ともに慈悲深い視線に包まれながら、それぞれの人生をただそこに提示していく。

 著者のローレン・グロフは1978年生まれのアメリカ人作家。野球の殿堂で知られるニューヨーク・クーパーズタウンで生まれ育ち、2008年に故郷を舞台にしたデビュー作The Monsters of Templetonを上梓する。以後、2009年に短編集Delicate Edible Birds2012年に長編第二作Arcadiaと、作品を発表するごとに評価は高まり、ポール・ボウルズ賞、O. ヘンリー賞などを受賞しているほか、スティーヴン・キング、村上春樹といったベテランの人気作家にもその実力を認められている。日本では「浮上」「L.デバードとアリエット」の短編二作が翻訳されている(前者はリチャード・ボーシュ編『アメリカ新進作家傑作選〈2008〉』、後者は村上春樹編訳『恋しくて』にそれぞれ収録)。

 本作Fates and Furiesはグロフの長編第三作であり、バラク・オバマ大統領が2015年の最も気に入った一冊として挙げたことも手伝い、アメリカでロングヒット。全米図書賞の最終候補にも残った。若くして結婚したロットとマチルダの二人の人生をそれぞれに寄り添って書き分けた作品で、前半Fates/後半Furiesと大きく二つのパートに分かれている。おおむね三人称が用いられているものの、Fatesがロット、Furiesがマチルダの視点に立って物語が展開される。本作では「視点の違い」及び「秘密」がキーであり、それを軸にグロフは、半ば強引とも思えるほどドラマティックに物語を転がしていく。

 

23年のあいだ、彼はこんな風に思っていた。自分が出会った女性は、雪のように純粋で、もの悲しく、ひとりぼっちの少女。彼は彼女を救い出し、2週間後、二人は結婚した。しかし突然、イカが海の底から浮き上がってくるように、物語の内に秘められた実相が明るみに出た。彼の妻は決して純粋ではなかったのだ。”

 

 Fatesでは、ロットの両親のなれ初めに始まり、父の死、母との断絶、マチルダとの出会いと結婚、そして俳優としての挫折と劇作家としての成功、これらの出来事が時系列通りに語り進められ、最後に、23年間の結婚生活で知られることのなかった妻の秘密がロットの前に露呈する。

 二人はお互い22歳で結婚し、ニューヨークで日夜パーティーを繰り返す退廃的な生活を送っていた。ロットはナルシスティックで自己愛が強く、重要な判断を自分で下せずに、全て他人任せにしてしまう男性。妻であるマチルダを聖女のように汚れのない存在だと思い込んでいることからもわかるように、彼はいつも物事を自分の都合良いように捉えて、不可解なことや思い通りにいかないことに対しては、目を逸らしてしまったり、子供みたいに妻に泣きついたりする。そんな未成熟なロットを、マチルダは横でじっと支え、彼のために仕事も辞め、ときに適切なアドバイスを送って、夫を大成させる。

 妻の献身もあって人気劇作家となったロット。マチルダに対して日頃の感謝や愛情を惜しみなく表すのだが、彼の内側には、自身も意識化できていないほどの深い女性蔑視の思考が眠っている。あるとき、有能な劇作家が集まって行うシンポジウムに招かれたロットは、「創造に携わる人間」を男性に限定したうえで、彼らに比べたら妻たちのほうがずっと立派な人間だと主張。会場から称賛を浴びるが…。

 

「結局のところ、女性とは子供を産む存在なのです。そして育てる存在。伝統的にね。子供の面倒を看るのが女性なのです。(…)私たちに与えられた創造性の分量は限られています。ちょうど命の分量が限られているように。もし女性がその創造性を架空の命ではなく実在の命に費やすとしたら、それは輝かしい選択です。女性が子供を産むということは、ただの作り物の世界を紙上に表すよりも、よっぽど偉大な創造なのです。(…)女性は男性と同じくらいに優れている――男性以上です、多くの場合は――しかし、なぜ創造性という点では不均衡が生じてしまうかと言えば、それは女性が創造に要するエネルギーを自身の内側に回すからです。外側ではなく」

 

 ロットのこの発言を受けて、会場には怒号が鳴り響く。マチルダも同様に憤って、壇上から助けを求める視線を投げ掛けてくるロットをよそに、立ち上がって会場を去る。ロットはここで、女性がいかに偉大な存在かを真剣に説こうとしている。しかし、彼の思いとは裏腹に、口を開けば蔑視的な本音が滲み出る。女は子供を産み育てる存在、男は創造に携わる存在。子供を持たないマチルダにとっては一層屈辱的だろう。

 この偏った女性観を示したのち、ロットは23年間知ることのなかった妻の秘密(のごく一部)を知ってしまい、絶望や諦めを抱いて物語の表舞台から退場する。ここで明かされたマチルダの秘密はFuriesへの序章であり、Fatesにおいて散見した曖昧な描写や説明不足な箇所、さらには上記のようなロットの女性蔑視的な思考や、彼の素直さ、ナイーブさが、続いて語られるマチルダの物語における伏線として機能し、“女による裏切り”をより劇的なものとする。

 

「君は病的なほどの正直者だね」かつてロットは彼女に言った。彼女は笑って、ためらいながらもそれを認めた。その時、彼女にはわからなかった。自分が真実を伝えているのか、それとも嘘をついているのか。彼女の人生の大部分は、夫にとって空白だった。彼に伝えたことと、伝えなかったこととが、うまくバランスを取り合っていた。それでも、言葉によって為される不実と、沈黙によって為される不実があって、マチルダはただ伝えなかったことによって、ロットに嘘をついていたのだ。

 

 まるでロットという男を表しているかのように直線的で単純な構造を取っていたFatesとはうってかわって、後半のFuriesは錯綜している。三つの時間――ロットと出会う前、夫婦として過ごした期間、彼との別れを経た後――の出来事が複雑に絡まり合いながら、マチルダの物語が展開される。

 前半でロットの視点から語られていた出来事や心情が、マチルダの視点から語り直されることで次々と様相を変えていく。ロットは彼の妻について何も知らなかった。彼女の過去、家族、本当の名前や国籍すらも。献身的で貞淑な妻として表象されていたマチルダの実態が明らかになることで、ロットの人生を彩っていた虚構の骨組みがひとつひとつ外されていく。同時に、Fatesにおいて抑圧を受けていたマチルダが、夫によって構築された像から解放されることで、物語がいきいきと呼吸をし始める。去り際に彼が示した女性蔑視的な思考も、マチルダの“裏切り”をより華麗に演出するスパイスとなる。

 前半の最後で妻の秘密を知り、同時に物語から姿を消したロットに対して、後半のFuriesは少し残酷な仕打ちに思えるかもしれない。彼がいなくなった途端に物語は広がりを見せ、マチルダの人生が語られるに連れて、何も知らなかったロットは“不在”でありながら辱められる、という構造。あまりに惨めだ。

 しかしグロフは、読者が一方的なカタルシスのまどろみに留まることを許さない。ロットが知らなかったのは妻のことだけではなかった。彼自身も思いも及ばなかった劇作家としての才能、子供を持つことができなかった彼の男としての能力など、前半で沈黙の陰に身を潜めていたあらゆるものが露呈し、ロットの名誉が回復されていく。そして、それらのひとつひとつが巧みにリンクし合い、ギリシャ神話を思わせるような悲劇をマチルダのもとにもたらす。

 妻についての認識をことごとく打ち壊されたロット。夫の築いた像を次々と解体していったマチルダ。何もかもがすれ違っていたように見える二人だが、作品を通じて彼らが正しく共有していたことがひとつだけある――互いを深く愛していたこと。どんなにマチルダが嘘をついていたとしても、ロットへの愛は偽りのないものだった。彼女が過去を思い起こすたび、そこには常にロットの存在が含まれている。彼の不在を嘆いている。ロットが創造性を発揮して大成していく過程においても、マチルダがドラマティックな“裏切り”を展開していくあいだも、双方が相手を根底で求め続けているからこそ、物語は二人のどちらをも振り落とさずに進んで行く。きれいな着地点は無い。ロットにとっても、マチルダにとっても。

 

 本作が単純な「女性嫌悪の物語」に収斂しないのは、こうしたアンビバレントな状態に作品を留め置いたグロフの節制に負うところが大きい。男を陥れるだけの物語であったならば、それは、男同士の団結を促し、結果として父権制イデオロギーの再生産にしか繋がらない、凡百の作品群に埋もれてしまったことだろう。物語の微妙なバランスを最後まで支えたのは、ロットとマチルダの、互いが互いに向ける愛情の込められた眼差しであり、それは同時に、作者が絶えず二人に注ぎ続けた慈しみでもある。