戸山翻訳農場

作業時間

月曜 14:45~18:00

木曜 16:30~18:00

金曜 18:00〜21:30?

ブログ



2016年

6月

18日

The Last Samurai by Helen DeWitt            樋口武志

 

The Last Samuraiは、2000年にアメリカで出版されたHelen Dewitt(ヘレン・デウィット)の長編デビュー作だ。トム・クルーズ主演で同じタイトルの映画があるが、本作とは関係のない別作品である。

 

ヘレン・デウィットは1957年にアメリカのメリーランド州タコマパークで生まれ、幼少期は父親の仕事の関係で主にメキシコ、ブラジル、コロンビア、エクアドルなどの南米で過ごしたという。1975年からアメリカの名門女子大学スミス・カレッジに通い、2度の中退を経て、オックスフォード大学で古典語と哲学を学んだ。1989年まではオックスフォードのサマーヴィル・カレッジで研究生活を続けていた。

 

 これまでに長編小説は本作とLightning Rods(2011)しか出版しておらず邦訳もないが、The Last Samuraiは多くの評者や雑誌から高い評価を得ている。30代の後半となり初めて小説を書こうと試みたが、7年をかけても未完成の小説が100冊近く残るばかりで、仕事を辞めて本書の執筆に取りかかったという。出版されようがされまいが、とにかく1冊書き上げないと人生が先に進まない、という思いだったそうだ。

 

 2000年代後半には絶版となっていた本書だが、つい先日2016531日にNew Directionsから復刊され、文芸サイトにいくつか書評が掲載されるなど、再び注目を集めている。

 

 シングルマザーの母親を持つ一人息子の天才児による父親探しの物語もさることながら、本書最大の特徴はその文章形式にあるだろう。


前半部では、一人息子の天才児Ludo(ルド)が同じく優れた知能を持つ母親のSibylla(シビュラ)と暮らして様々な言語を学んでいく過程が描かれる。ルドは3歳からピアノを弾き、4歳でギリシャ語を、5歳でアラビア語やヘブライ語や日本語を習得し、父親のロールモデルになればと黒澤明の『七人の侍』を何度も見せられる。

 そのなかで、母親がアメリカからイギリスへと渡ってオックスフォードで古典語や哲学を学び、酔っ払って男と一晩をともにしルドが生まれるものの、ひとりで育てることを決意し父親の存在をひた隠しにしていることが次第に読者に明らかになっていく。

「理性的であること」に固執する母親に従うかのように数々の言語の古典から人生を学ぼうとするため、ある書評では「Knowledge Porn」と記されるほど、様々な言語の古典や引用が入り乱れる。それに加えてI said: How did she〜」のように発言部分で「:」を駆使し“”を使わず、詩のような改行を多用し、フォントを変えたり数式を挿入するなどの視覚性が本書の独特なスタイルを生み出している。

 

 しかし1番の魅力は、高い知能を持つシビュラとルドそれぞれの語り方にあるように思う。不必要に思える部分や繰り返しの多い文章だが、それがなんともチャーミングなのだ。

 

 短いプロローグのあと、第1章の冒頭で母親のシビュラはほとんど誰にも知られていない1912年に出版されたドイツ語の古典を読んでいる。以下、少し長いが引用する。

 

    このほとんど知られていない作品の最初の文章は次のように始まる。

   Es ist wirklich Brach- und Neufeld, welches der Verfasser mit der    Bearbeitung dieses Themas betreten und durchpflügt hat, so    sondrbar auch diese Behauptung im ersten Augenblick klingen  

   mag.

    私は『自分で学ぶドイツ語』でドイツ語を自分で学んでいたから、この文

   章のいくつかの単語はすぐに分かった。

   これは本当に何たらかんたらであるから、何とかがこの何とかに何たらかん

   たらにしても、これからする何とかは何たらかんたら初めのうちは何たらか

   んたらかもしれない。

   残りの文章は、Brachfeld、Neufled、Verfasser、Bearbeitung、

   Themas、betreten、durchpflügtsonderbarBehauptung

   Augenblick、そしてklingenをランゲンシャイト社の独英辞典で調べて解読

   した。

   (中略)

    この文章の意味はきっとこんな感じだ:これは本当に未開の新しい領域で

   あるから、著者がこのテーマに足を踏み入れ掘り下げるにしても、これから

   する主張は特に初めのうちは奇妙に聞こえるかもしれない。

 

 中略した部分では、「オックスフォードに入学する際に身長と体重以外は何もかもウソをついた」などなど思弁的な文章の迂回があり、ドイツ語の解読までに2〜3ページも費やされるのだから、この本が500ページ以上の厚さになるのもうなずける。

 物語が中盤に入ると、ルドは11歳となり「死後開封すること」と書かれた母親の書類を見つけ、そこで父親の名前を知り、母親に隠れて実の父親を探し当てるが、思っていたほど大した男ではなかったため息子だとは打ち明けず、『七人の侍』をなぞって父親がわりの存在を探して6人の男に会いに行く。

 

 父親になってくれる相手はいないが、彼は行く先々で自分はあなたの息子だと言い、彼らと様々な会話を重ね、自分が数々の言語を知っていることを伝える。

 

   ほかに何を知ってる? 6×7は?

   どういう意味? 僕は用心深く聞いた。数についての哲学的考察はまだあま

   りやっていなかった。

   なんてこった。

   (中略)

   彼は言った:なんてこった、おれは6歳の頃に12の段まで全部覚えてたぞ。

   僕は4歳までに20の段まで覚えていたけど、うんざりしすぎてそうは言わな

   かった。僕は言った:ああ、6と7の積を知りたいって意味だったのか。

   どんな意味だと思ったんだ? 彼は言った。

   わからない、だからどういう意味って聞いたんだ、と僕は言った。

   そんなデタラメ言ってるとそのうち学校を追い出されるぞ、彼は言った。

 

 この物語で面白いのは、実の父親に会っても、その後6人の男たちと会っても、誰もルドにとっての「本当の」父親にはならないところだ。物語は父親を獲得するのとは違う形で結末を迎える。

 

 最後の章「僕は真のサムライ」でルドはあるピアニストの男性と出会う。ルドは彼にピアノのCDを作ってほしいと依頼する。そして数ページの短いやり取りがあったあと、二人は母親が好きだった曲のCDを作ることで合意して幕を閉じる。

 

 作中では『七人の侍』のほか、同じく黒澤明監督の『姿三四郎』に対するドナルド・リチーの考察も引用されている。三四郎がすべての相手に勝った後、西洋の論理なら彼が成長し、何物かになったことが明示されて終わるべきだが、黒澤の映画ではそうならない。なぜなら「たったひとつの戦いによって平和や満足や幸福を得るとするのは、そう暗示するだけでさえ文学的には真実を失うこと」だからだという。

 

 この引用に呼応するように、ルドの父親探しの旅の終わりは、父親の不在を乗り越えたことが明示されるわけでも、新たな父親を獲得するわけでもないが、父の不在を否定するでも肯定するでもなく、一度受け入れて、そこから歩みを進めていこうと感じさせる終わりになっている。そしてまた一方で、CD作りは母親の救いになっている。

 

 本書には『姿三四郎』に対するリチーの別の考察も引用されていて、それは三四郎がある戦いに勝った後で師匠の矢野から「人間の道とは忠孝の道だ、即ち、天然自然の真理である。この真理によって死の安心を得る」と言って叱責されるシーンだ。

 

 映画のなかでは、こう言われた三四郎は池に飛び込み、死を恐れぬことを証明しようとし、結果的に「それは自分が生きるのを恐れぬことを証明しているにひとし」いとリチーは考察するが、The Last Samuraiの母親シビュラは「理性的であろう」とするあまり、人とうまく付き合えず、しまいには自殺願望を垣間見せるようなところもある。

 

 結末部で母親の好きな曲のCDを作るのは、そんな母が生きることを恐れないよう、救いの手を差し伸べるルドのささやかな愛情だと受け取ることができる。シビュラとは古代の女預言者の名であり、彼女の言葉に従うならば、このような解釈が可能なはずで、それはそれでとても感動的なのだが、もう少し別の受け取り方もできるのではないかと思う。

 

 著者は、あるインタビューで父親と電話でケンカして「人は親を選ぶことはできない。けどもし選べたら、あんたなんかよりずっと良い父親を選ぶのに」と思ったときに本書の着想を得たと語っている。これを踏まえれば、本書は偶然と必然をめぐるルドと、そして母親それぞれの物語だと言える。

 

 ルドは父親がいないという外的偶然を内的必然に変えようと旅をする。そして母親は、しがない男とのあいだに子供ができ、生活も苦しい偶然に悩まされ、理性的であることでそこから逃れようとしている。この逃走は、もうひとつの外的偶然=母国語から逃れ、その他様々な言語を必死に学ぼうとすることにも象徴されている。そう考えると本書に外国語が溢れていたことにも、視覚性以上の切実さを読み取ることができる。

 

  作中には引用されていないが、『姿三四郎』に関するリチーの考察には、次のような言葉も記されている。

 

「知る必要を知らぬ者は決して知ることはできぬが、なまなかな知識も、真に知ることをかえって難しくする」

 

 The Last Samuraiは膨大な知識を持つがゆえに「真に知ることがかえって難しくなった」二人の物語だ。世界には理性では割り切れない何かがあること、そしてまた言葉を越えた何かがあることを、本書はその内容と形式の両面を通じて伝えているように思う。