戸山翻訳農場

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2016年

8月

19日

警官と讃美歌                    訳:増子久美

 マディソン・スクエアのいつものベンチで、ソープィは落ち着かなげに動いていた。夜空の向こうから野生のガンの甲高い鳴き声が聞こえるとき、アザラシの毛皮のコートを持たないご婦人たちが夫にせっせと愛想を振りまくとき、公園のいつものベンチにいるソープィが落ち着かなげに動くとき、冬がすぐそこまで来ていることがわかる。

 枯れ葉が一枚、ソープィの膝に落ちた。それは冬の妖精ジャック・フォレストからの挨拶状である。ジャックはマディソン・スクエアを定宿としている者たちに、情け深くも年に一度の自分の来訪をきちんと告げる。四つ辻の片隅で、完全野外(オール・アウトドアズ)マンション召使いである北風自分の名刺を配るので、そこの常連たちはそれでもって準備に取りかかれるというものだ

 ソープィの心は、ひとりぼっちの対策委員会を結成し、寄せ来る厳しさへの手立てを講じる時期にさしかかったという思いに満たされた。そんなわけで、いつものベンチで落ち着かなげに動いていたのである。

 ソープィの避寒の望みはそれほど立派なものではなかった。地中海クルーズだとか、眠たくなるような南の空だとか、ヴェスヴィアン湾をゆらゆら漂うだとかは思ってもいない。あの島 [i]に三ヶ月滞在すること、思い描いていたのはそれだった。三ヶ月のあいだ寝床と食事が保証され、気心の知れた仲間に囲まれ、北風の神ボレアスと警官から逃れられれば本望と言えるであろう。

 何年ものあいだ、快適なブラックウエルズ島がソープィの冬の仮住まいだった。ニューヨークの彼よりも恵まれた連中が冬になるとパームビーチやリビエラ行きのチケットを購入していたように、ソープィも恒例の島への逃避行を慎ましやかに整えてきた。そしていま、その時がやってきた。前の晩には分厚い日曜版の新聞を三部使って、コートの下に入れ、足首の周りに巻き、太腿を覆ったが、歴史ある公園でしぶきを上げる噴水の傍らのいつものベンチで眠っていては、寒さを防ぐ手段とはならなかった。そういうわけで、島がここぞとばかりにソープィの心に大きく迫ってきたのである。彼が毛嫌いしていたのは、市が生活支援をしている者たちに与えられる、慈善という名目の施しだった。刑罰のほうが慈善行為よりも情けがあると信じていた。公共であろうが慈善であろうが、あらゆるところに一連の施設が存在し、そこに出向けば、いわゆる「シンプルライフ」に見合った寝床と食事を得ることができるだろう。しかし、ソープィのような誇り高い精神を持つ者には、慈善による施しは煩わしいだけだった。金の支払いが伴わないとしても、慈善活動によるいかなる恩恵にも精神的な屈辱でもって支払わねばならないからである。シーザーにはブルータスというように、いかなる寝床の施しにも入浴するという代償が伴い、いかなるパン一切れにも、個人的な私事に関する尋問というコストが伴う。そうであれば刑罰の世話になったほうがましというもので、規則にしばられるとはいえ、紳士の個人的な領域にずかずか踏み込まれることはないのである。

 島行きを決めたソープィは、望みを決行すべくすぐさま動き始めた。そのための手軽な方法ならいくつもあった。最高なのは高級レストランで優雅に食事をしてから金がないと告げ、おとなしく騒ぎ立てずに警官に引き渡されることである。それから先は親切な判事がやってくれるだろう。

 いつものベンチを離れ、ソープィは公園をふらりと歩いてブロードウェーと五番街が合流するアスファルトの海を渡った。ブロードウェーの方に曲がり、一軒のきらびやかなカフェの前で立ち止まる。そこはブドウやらシルクやらの逸品、極上の生身の人間が夜ごとに寄り集められるところであった。

 ソープィはベストの一番下のボタンから上には自信があった。髭は剃っているし、上着はまともで、黒の簡易タイプのネクタイは感謝祭の日に婦人伝道師からもらったものだ。疑われずにテーブルに辿り着けさえすれば、成功したも同然だった。テーブルの上に出ている姿からは、給仕の脳裏にも何ら疑いは浮かばないであろう。真鴨のローストあたりがいい、とソープィは考えていた――シャブリ・ワインを一本付けて、それからカマンベールチーズ、デミタスコーヒー、さらには葉巻一本。葉巻は一ドルあたりでよしとしよう。総額はカフェの経営陣から半殺しの目にあわされるほどにはならないだろうし、そうとはいえ腹は膨れ、満ち足りた気分で冬の避難所に旅立てるというもの。

 しかし、ソープィがレストランのドアの内側に足を踏み入れるなり、給仕長の視線はすり切れたズボンと履き古した靴に注がれた。待っていましたとばかりに力強い腕が伸び、彼の体を反転させると無言のうちに素早く歩道へと引き立て、危機にさらされていた真鴨を不名誉な運命から救い出した。

 ソープィはブロードウェーから脇道に逸れた。どうやら念願の島への道のりは食を堪能しながらとはいかないようである。ムショ行きの他の手立てを考えねばならなかった。

 六番街の角で、一枚張りの板ガラスの後ろに電飾と巧みにディスプレイされた商品が並んだ、一軒の店のショーウィンドウが光を放っていた。ソープィは丸石を拾い上げるとガラス目がけて投げつけた。人々が現場に駆け寄ってきて、その先頭に警官がいた。ソープィはポケットに手を入れ突っ立ったまま、警官の真ちゅうのボタンを見てほくそ笑んでいた。

「あれをやったやつはどこだ?」警官が尋ねた。鼻息が荒い。

「私が何か関係しているとは思いませんか?」ソープィは訊ねた。皮肉っぽさがにじみ出ていたとはいえ、親しげで、幸運を迎え入れようとしているようだった。

 だが警官にはソープィを相手にする気はこれっぽっちもなかった。窓ガラスを割るような連中は、法の手先の者と話し合うために現場に留まったりしない。とっとと消え去る。その時、半ブロックほど先で慌てて路面電車に乗ろうとしているひとりの男が警官の目に入った。警官は警棒を引き抜くと、その後を一緒になって追いかけて行った。うんざりしながらソープィは、ふたたびあてもなく歩き始めた。二度もやり損ねたのである。

 通りの反対側にはレストランがあり、派手さはいっさいなかった。食欲は旺盛でも貧しい財布にはうってつけというところだ。食器や空気は重いくせに、スープやテーブルクロスは薄い。店の中へと、ソープィはボロを出しそうな靴とおしゃべりなズボンのままで難なく潜り込んだ。テーブルに着いて、ビーフステーキ、パンケーキ、ドーナツ、パイを平らげた。それから給仕に、自分は一セント硬貨にすら縁のない人間なのだと打ち明けた。

「さあ、ぐずぐずしないでお巡りを呼んでくれ」ソープィは言った。「紳士を待たせたりしないでくれよ」

「おまえみたいなやつらにお巡りはいらねえさ」給仕は言った。ねっとりした声はバターケーキのようで、片目がマンハッタンカクテルに浮かぶチェリーのようだった。

「出番だ、コン!」

 硬い歩道に左耳をまともに打ち付けるような格好で、ふたりの給仕に通りに放り投げられた。ソープィは大工が折り尺を広げるように関節をひとつずつ伸ばして立ち上がると、服についた土を払った。逮捕されるというのは、かなわないバラ色の夢のように思われた。島は遙か彼方に思われた。二軒先の薬局の前に立っていた警官は笑い声を上げると、通りを歩き去った。

 五ブロックほど歩いて行くうちに、ソープィはようやく捕まえてもらうためにまたがんばる気になった。今度は彼が愚かにも「楽勝」と踏んだ状況が目の前にあった。上品で感じのよい若い女性がショーウィンドウの前に立ち、その中に並ぶ髭剃り用のマグとインクスタンドを興味深そうにしげしげと眺めており、そこから二ヤード先には恰幅のいい強面の警官が給水栓に寄りかかって立っていたのだ。 

 ソープィの計画は卑劣で許し難い「ナンパ男」のふりをすることだった。上品で優美な獲物、そして近くには忠実な警官がいる。ソープィは自分の腕が警察当局の頼もしい手の中に収まり、あのおあつらえ向きの小島、堅牢な小島にある冬の逃避所に連れて行ってくれるのを信じることができた。

 ソープィは婦人伝道師からもらった簡易タイプのネクタイをまっすぐに整え、奥に入り込んでいたワイシャツの袖口を引っ張り出し、帽子を粋に傾けると、若い女性の方へとにじり寄った。色目を使い、だしぬけに咳払いしてみたり、「えへん」と声を出したり、微笑みを浮かべたり作り笑いをしたりと、「ナンパ男」の卑しむべき下品なありきたりの手を使った。例の警官がじっと自分を見つめているのが視界の隅に入った。若い女性は二、三歩後ろに下がって、また熱心に髭剃り用マグを見つめた。ソープィは追いかけてずうずうしく傍らに歩み寄ると、帽子を上げ声をかけた。

「やあ、ベデリアじゃないか! 俺の家に来て遊ばないかい?」

 警官はまだ見ている。言い寄られた女性が指で合図しようものなら、ソープィは安息の島へ旅立ったも同然だった。早くも警察署の心地よい温もりに包まれている自分の姿が目に浮かんだ。若い女性は顔を向けると、片手を伸ばしてソープィの上着の袖をつかんだ。

「もちろんよ、ハンサムさん」女は言った。弾んだ声である。「ビールをたんまりごちそうしてくれるならね。もっと早く声をかけたかったけど、お巡りがずっと見てたじゃない」

 樫の木にからみつく蔦のようにじゃれてくる若い女を連れ、ソープィは暗澹たる気持ちで警官の脇を通り抜けた。見逃されるよう運命付けられている気がした。

 次の角に差しかかると、ソープィは連れを振り払い逃げ出した。やがて立ち止まった界隈は、夜になると通りも心も誓いも歌声もすべてがとびきり明るく軽いところだった。毛皮をまとった女と厚手の外套を着た男たちが冬の空気の中を楽しげに行きかっている。ソープィはいきなり恐怖に捕らわれ、おぞましい魔力か何かによって、自分は逮捕されないようになってしまったのではないかと思った。そう考えると恐怖で自制心がなくなり、きらびやかな劇場の前をさっきとは違う警官がふんぞり返って歩いているのを見かけたとき、藁をもつかむ思いで「治安妨害」に打って出た。 

 歩道でソープィは、酔っぱらいの雄叫びのごとく、声を限りに叫び出した。踊ったり、吠え立てたり、怒鳴り散らしたりと、なんやかんやとあたりの空気をかき乱した。

 警官はこん棒をくるくる回しながらソープィに背を向け、人々に告げた。

「イェールの学生ですわ。祝ってるんですよ、ハートフォード・カレッジをゼロに抑えたってね。うるさいですが、害はありません。ほっとけって言われてますんでね」

 絶望的な気持ちになり、ソープィは無意味なバカ騒ぎをやめた。警官は決して捕まえようとはしないのか? 彼の夢想する「島」は、決して辿り着けない伝説の理想郷(アルカディア)のように思えてきた。冷たい風を避けようとソープィ薄っぺらい上着のボタンをかけた。

 一軒のタバコ屋の店内で、身なりの良い男が天井から吊された揺らめく火の下で葉巻を点けようとしているのが目に入った。男の置いたシルクの傘が入口のドア脇にある。ソープィは店内に入り、傘を握りしめ、それを手にゆっくり歩き出した。火のところにいた男が慌てて追いかけてきた。

「私の傘だ」と男は言った。語気が荒い。

「おや、そうなんですか?」馬鹿にしたようにソープィは言った。小さな窃盗に侮辱まで加えたというわけだ。

「それなら警官を呼んだらどうです? 私が取ったんですよ。おたくの傘なんですよね。お巡りを呼んだらどうです? 角にひとり立っていますよ」

 傘の持ち主は歩を緩めた。ソープィもそれに合わせたが、幸運がふたたび逃げて行くような嫌な予感がした。警官はふたりを怪訝そうに見ていた。

「おっしゃる通りです」傘の男は言った。「つまりですな――ええと、どうしてこのような間違いが起こったかはご理解いただけますよね――私はですね――この傘があなたのものなら、どうかご勘弁願いたい――今朝ほどレストランから持ってきてしまったのです――もしあなたの傘に間違いがないというのなら――ここはどうか――」

「その通りだ、俺のだ」ソープィは邪険に言った。

 傘の元持ち主は立ち去った。角の警官は、通りを横切ろうとしている丈の長いマントをまとった背の高いブロンド女性に手を貸そうと駆け寄って行った。後方二ブロック先から路面電車が近づいていた。

 ソープィは東の方へと改修工事のために破壊されている通りを歩いた。そして腹立ち紛れに傘を工事中の穴に投げ込んだ。ヘルメットをかぶり警棒を持つ連中を小声でののしった。連中に捕まりたいと思っているばかりに、彼らはソープィのことを「国王は悪をなしえず」と見なしているように感じられた。

 やがてソープィは東の大通りのひとつに辿り着くが、そのあたりにはきらびやかさも喧噪もなかった。彼はマディソン・スクエアの方へ顔を向けた。帰巣本能というのは、たとえその住まいが公園のベンチであっても消えないものなのだ。

  しかし、奇妙なほど静かな一角で、ソープィはぴたりと足を止めた。そこは古い教会で、趣があり、切り妻造りの建物が四方八方に不規則に広がっていた。菫色のステンド・グラスの一角からは柔らかな光が溢れており、中でオルガン奏者が鍵盤に指をすべらせ、来たる日曜日の賛美歌をうまく奏でられるか確かめているのが分かった。漏れ聞こえる甘美な音楽にソープィは心を捕らわれ、うずまき模様の金網から離れられなくなった。

  頭上では月が穏やかに輝き、乗り物も人もほとんど見えず、スズメが軒下で眠たげにさえずっている――つかの間、その光景は田舎の教会の庭のようにも見えた。オルガン奏者が奏でる賛美歌は、ソープィを金網に縛り付けたが、それはその調べがかつて身近にあったからだった。人生は、母親やバラや希望や友人、そして汚れのない考えやシャツの襟といったものに囲まれていた。

  ソープィの柔らかくなった心と古い教会からの力が結び付き、その魂にいきなり素晴らしい変化がもたらされた。閃光のような恐怖とともに、彼は自分の転がり落ちた穴の中を、堕落した日々を、くだらない欲望を、なくした希望を、無駄にした能力を、卑しい動機といった自分という人間を作り上げているものを眺めた。

  そしてまた、たちまちのうちに、今までにない胸の高鳴りを覚えた。一瞬の強い衝動に突き動かされ、絶望的な運命に抗うことを決心した。泥沼から這い上がろう、もう一度まっとうな人間になろう、自分に取り憑いた邪悪な心に打ち勝とう。時間はある。俺はまだそれなりに若い。かつて抱いていた熱い希望を蘇らせ、怯むことなく追い求めよう。聞こえてくる荘厳でありながらも甘美なオルガンの調べは彼の中に革命を起こした。明日、賑やかな町の中へ行って仕事を見つけよう。昔ある毛皮貿易商が運搬の仕事を持ちかけてきたことがあった。明日その男を探し出し、話を聞いてみよう。ひとかどの人間になるんだ。そして――

ソーピィは腕に誰かの手を感じた。素早く振り向き、そこにあった警官の大きな顔を見つめた。

「ここで何をしている?」警官は尋ねた。

「なにも」ソープィは言った。

「ならついて来い」警官は言った。

「三ヶ月の島行きを命ずる」翌朝、警察裁判所の治安判事が告げた。

 



[i] 訳註:ルーズベルト島(旧名ブラックウェルズ島)