戸山翻訳農場

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Next Life Might Be Kinder by Howard Norman       川野太郎

「わたしの妻エリザベス・チャーチは、エセックス・ホテルでポーターのアルフォンス・パジェットに殺害されたあとも、わたしのもとを去らなかった」。

 

これがハワード・ノーマンの長編第七作、一九七〇年代のカナダを舞台にしたNext Life Might Be Kinder(二〇一四)の書き出しである。ノーマンの小説ではしばしば、取り返しのつかない事態はすでに起ったあとであり、それが冒頭の一行目で示される。「わたし」、作家のサム・ラティモアはつづける。

 

事実、わたしは一九七三年八月二十七日の昨夜もエリザベスに会った。道を隔てた向かいにあるフィリップとシンシアのスレイトン夫妻家の裏手にある浜辺で、彼女は本を並べていた。かれこれ十三か月ほど前にハリファクスからこのコテージに越して以来、彼女が同じことをするのをほぼ毎夜見てきた。いまわたしはノヴァスコシアのポート・メドウェイに住んでいる。

 

駆け出しから、「この世」と「あの世」をへだてる死が語られ、小説のタイトルに含まれたニュアンスがいったいどんなものなのかを想像させる。

 

だがこれはまた、ふたりの出会いの場所を示す符号でもある。

 

夫、サム・ラティモアによる手記が始まる時点から溯ること二年、一九七一年八月三十日のハリファクスのギャラリーで、ふたりははじめて出会う。展示されていたのは、スイス生まれの写真家、ロバート・フランクがカナダで撮影した二十点の写真だ。

 

来場者たちの目を惹いたのは、すべての写真の余白にフランクが書き留めたとおぼしきフレーズだった。

 

「ギャラリーはとにかく込み合っていて、壁に沿って写真から写真へとゆっくり動くうちに、わたしはエリザベスの(もちろんまだ彼女の名前は知らなかったが)となりに立って」いた、とサムは回想する。「そしてエリザベスが、ロバート・フランクが写真の下に書き付けた言葉を読むのが聞こえた――」。

 

Next Life Might Be Kinder

 

エリザベスはサムに向き直ってつづける、「わたしたち、この言葉についてもっと考えてみるべきだよね?」この出会いから一年と経たずにふたりは結婚し、ハリファクスにあるエセックス・ホテルで暮らしはじめる。

 

エリザベスが、ホテルのホールで催されたダンス・レッスンの会場でのトラブルを発端に「ポーターの制服を着たサイコ」アルフォンス・パジェットに射殺されるのは、エリザベスが二十九歳のときだ。サムとエリザベスが出会って二年、結婚してから二〇九日。あまりの短さに、自分たちの結婚生活が「いいものだっただろうか」と問うことさえできないほどだった。

 

しかし、冒頭のサム本人の言葉にしたがえば、彼女は彼のもとを「去らなかった」。事件現場となったホテルを後にしたサムが海辺のコテージに引っ越したその日から、近所の海岸にエリザベスが姿をあらわす。彼女は言葉を交わす前になぜか、かならず十一冊の本を並べていく。日が沈み、しかも雨が降っていないときしかあらわれない彼女のことを、サムは「本を濡らしたくないんだろう」と思う。

 

来る日も来る日も日没を待ちながらとりとめなく思い出すのは、かつてエリザベスの両親に聞いた妻の幼少期の出来事や、妻と出会ったころに交わしたやりとりや、静物画のように記憶に焼き付いたある日のエリザベスの机の上の様子である。あるとき、遺品のなかから、エリザベスがホテル住まいのときから書き進めていた学術論文のメモを見つける。そこには研究対象であった作家、マーガニタ・ラスキーの中編小説The Victorian Chaise-Longue(『ヴィクトリア朝のシェーズ・ロング』)からの引用があった――「時間はまっすぐ進むのではなくあちこちに、あてもなく進んでいくのだろう」。

 

しかし、アルフォンス・パジェットとの出会いから、パジェットがエリザベスに向けて拳銃の引き金を引くまでの経緯はそれと異なり、厳格な時系列に沿って語られる。語りは取り返しのつかない瞬間にまっすぐ向かってゆき、回想の語りなのにもかかわらず直線的であることが、サムが文字通り痛感している時間の不可逆性を強く意識させる。

 

サムの現在を苛酷なものにしているのは、こうした過去だけではない。

 

エリザベスの死後、のっぴきならない金銭的な事情で、妻が殺害されるまでを含むじぶんの結婚生活のエピソードを映画の原案として売ってしまったことが、サムに追い打ちをかけている。自身にたいする後悔はもちろんのこと、偏執狂的な映画監督ピーター・イストヴァクソンは、サムにつきまとい、事件が起こったまさにそのホテルで撮影を敢行し、サムとエリザベスが暮らした部屋を控え室にして、サムを悩ませる。イストヴァクソンは新聞のインタビューに答える、「サム・ラティモアとエリザベス・チャーチ――ぼくはほとんど彼らになりかかっている。彼らを夢みている。起きたまま夢見ている。ぼくたちは一緒に、奇妙で驚きにみちた、とてつもなく深遠な旅をしているところだよ」。

 

イストヴァクソンの映画作りへの執着は、サムにとってはまぎれもない、ふたりの命や記憶にたいする、二次的な収奪のふるまいである。そのインタビューを載せたタブロイド紙が「射殺」と「撮影」をおなじ「shoot」という言葉で伝えるのは、語彙や思慮のなさ以前に、ひとつの事実を告げている。サムはいまなお命を脅かされる、ひとつの戦時を生きているのだ。

 

イストヴァクソンのメッセンジャーである助手リリー・スヴェトガートットは、サムの住まいをたびたび訪ねて一場に緊張を与えるもうひとりの主要登場人物だが、あるとき彼女が上司からサムにと預かった贈り物は皮肉めいている。監督が贈り物にした愛読書は、The Art Of War――兵法書『孫子』の英語版だった。

 

 

エリザベスと会うことと早朝の野鳥観察をのぞけば、サムのルーティーンは週に一度、コテージから車で二時間の街であるハリファクスまで行き、精神科医であるニッセンセン医師の診察を受けることである。

 

サムは毎週、夜にエリザベスと交わした会話の内容を医師に聞かせるが、医師の見解は、何ヶ月経っても初診のときと変わらない。「あなたは実際にはエリザベスと会っていません。彼女は現実に、去年の三月二十六日にエセックス・ホテルで殺害された。そしてウェールズのヘイ・オン・ワイに埋葬されました。でもあなたは彼女の死を受け入れていないんですよ、サム。彼女と会いたいという強い思いが幻を見せているのです」

 

サムによれば、エリザベスは、殺害が起こるその瞬間になにを見たのかを語るつもりがあると告げながら、それを先延ばしにしている(サムは事件が起こるまさにそのとき、外出中だった)。また、ふたりのあいだには常に一定の物理的な距離があり、サムは彼女が並べる十一冊の本の書名を確かめないままでいる。サムとエリザベスの交流におけるこうした細部に、医師はサムの内的な状態を読み込む。サムにエリザベスの死を受け入れる準備がないから、本のタイトルは見られないままであり、エリザベスがひとりで最後に目にしたものをサムが聞けないのは、サムひとりの認識の限界と、心理的な緊張のためである、と。

 

医師にとってエリザベスはあくまでサムの想念の産物であり、サムが話題にするエリザベスが、彼女のすべてなのだ。サムが浜辺にたまたま持ちだした蔵書をエリザベスが手に取り、めくった。そんな話題があるたびに、「検証」が仄めかされる――彼女の指紋は採れるだろうか? サムはそのたびに感情をさかなでされる。彼にとって大切なのはそんなことではなく、ホテル住まいをやめたあと、いまこのときも、エリザベスが論文を書き進めていること、彼女から、いま何ページまで書いたかを告げられることだ。

 

だが、エリザベスの存在の当否をめぐる綱引きは、つねにサムの分が悪い。彼女を見ているのはサムだけで、サムの持続的な不眠症は、証言の信憑性にかかわるほど深刻である。あるときから彼は、ときには一時間のセッションのあいだにほとんど失神といっていい居眠りをするようになり、診療所に来るのに走らせてきた車をどこに停めたのかを思い出せなくなる。

 

そんななか、サムがポート・メドウェイ図書館の司書、ベサニー・ドーソンと知り合ったことが、また別の予兆をもたらす。きっかけは、ベサニーが貸し出しカウンターで居眠りをしていたとき、サムが書き置きを残して手続きをせずに本を持ち帰ったことだった。ベサニーからの電話を受けて、彼はこたえる。「ポート・メドウェイ図書館に窃盗の心配はないと思ったものですから。すぐに伺ってお詫びします」。

 

ベサニーはそれに応じて、こんなことをいう。たしかに、返却期限を延滞した本はたくさんあるけれど、盗まれるなんてまずありませんね。でも一年ほど前でしたか、めずらしいことがあったんですよ。本が十一冊まとめてなくなったんです。

 

その話を聞いたサムは、盗まれた本のリストを請う。

 

すでにこの小説を最後まで読んだ読者は、それらの書名をご存知だろう。そして、その書名の並びを見たサムが自身の思いを読者には明かさないことも。

 

サムが書名とエリザベスとの関係をことさらに言い立てたりはしないのはなぜだろう? 考えてみれば、サムにとってエリザベスとのこれまでのふれあいはあったことであって、証明を必要としないものだ。サムの不利が決定的な「カウンセリング」で明らかになったように、エリザベスがそこにいるということはいかなる「検証」とも相容れない。サムが検証を嫌うのは、実際に検証した結果として彼女の存在が否定されるのを恐れている以上に、試すという不信の行為とともに、彼女は存在しえないからである。

 

いずれにしても、どんな書名もエリザベスの存在を証す「物証」にはなりえず、すべては「偶然」でありうる。それでもわたしたちは、図書館と海岸でおこったふたつの出来事のあいだになにかが示されていると考えてしまう。そして本のリストをなんども眺める。そのうちに、ほんのふたつの出来事をどう捉えるかということに、世界をどう考えるかのすべてがあると気づく。

 

 

ギャラリーでロバート・フランクの個展が催された数日後、知り合ったばかりのふたりは、展示を主催した大学でのフランクの講義にかけつける。そこで、ひとりの学生がフランクに、ほぼすべての写真の余白に書かれた例の文句についてたずねる。それは宗教的なものの見方なのか、また、ここにある楽観と悲観についてなにかコメントできるか、と。

 

「もし来世というものがあるなら、そうですね、それがよりやさしいものであってほしいと思っています」ロバート・フランクはそう答えた。「しかしあなたの洞察がどんなものでも、わたしに到達できるものよりずっとすぐれているでしょうね。なにしろ、わたしはつねに、絶え間ない不確かさのなかにいるので」

 

エリザベスはサムが会いたいひとであるだけでなく、たしかに会っているひとなのか、どうなのか。ふたりの人間が出会うとはじっさい、どういうことなのか。

 

「絶え間ない不確かさ」が、サムの語りを支えている。

 

エリザベスが殺害されたあとにサムが彼女と会える浜辺は、コテージのもとの持ち主であるスレイトン夫妻の家の裏手にあった。夫妻には、だから、事情を説明せざるをえない。越してきた最初の夜から彼女と会っていること(「彼女がどうやってここを見つけたのかはわかりません」)。彼女が決まって本を並べていくこと。ときには言葉を交わすこと。

 

「これを告げたとき、彼らは驚きの表情をうかべた。でも、ほんとうにそれだけだった。ふたりのうちどちらも、「は? いったいなにをいってるの?」というようなことはいわなかった」。

 

サムが自分の精神は危険な状態にはないことを告げる場面は、いささか滑稽でさえある。第三者にさえひとの正気を確かめるのは難しいのに、当人にそれができるものなのか。彼は周到にも、もし来客に説明が必要なら、天体観測をしているんだと説明できるように、望遠鏡を持って出かけます、とまで提案する。

 

「必要ないよ」とフィリップはいった。

「そう、わたしたちはかまわないから」シンシアはいった。「浜辺はあなたのものと思ってほしい。なんなら泳いでもいいけど、水が夏でも冷たいのよね。エリザベスのことは――わたしは、いまも彼女と会えるあなたは、幸運なひとだと思う」。なんとよいひとたちなのか、とわたしは思った。こんなことを聞いて、どうして動揺しないのだろう? きっとお茶をしながら飲み込める話ではなかったんだろう。あとで大騒ぎするんだろう。コテージを買い戻すかもしれない。それでも、とにかくこちらの事情は知ったわけだ。しかし、フィリップとシンシアが見下すような振る舞いをすることはいっさいなかった、たとえあのあとどんなことを話していたとしても。さらなる追求もなかった。それでもある日の夕方、彼らの家に足を踏み入れたとき(ドアにメモが貼ってあった――「サム、入って!」)、キッチンからシンシアの声が聞こえた。「わたしは神秘主義者じゃないけどね、フィリップ、でももし交通事故でわたしが死んだら、ってほら、なにが起こるかはわからないでしょ。そうなったら、わたしはあちこち歩きまわってでもあなたから目を離したくないと思うの」するとフィリップがこたえた、「裏の浜辺でエリザベス・チャーチとも知り合えるね」こうして、ふたりがこのことをめぐってあれこれ話しているのを知ったのだった。しないわけがない。キッチンに入っていくとフィリップがいった、「やあ、サム、こんばんは。飲み物は?」

 

心身の不調は明らかで、エリザベスが死んだか否か、という問いそのものを拒みつづけるサムのことを「信頼できない語り手」と呼ぶのはたやすい。だが、読者がこの箇所にいたるわずか五十ページのあいだに、彼の発言の中身ではなく、「絶え間ない不確かさ」に身を置きつづける彼の熱意を信頼しようと思えたら、サムを迎え入れるスレイトン夫妻は、この小説の、さらに奥の部屋に通じる入り口になる(「入って!」)。

 

登場人物たちが互いに秘めていて、また読者にも終盤にしか明かさない事実が、たしかに、ある。だが、たとえそうでも、疑うことを基本姿勢にして読むことは、肝心なもの、たとえばこのような描写への感受性を、損なわせるように思える。

 

今日はちょうど夜明けの時間に深緑のウィンドブレーカーとニットキャップを身につけ、ヴォグラーズ・コーヴに出かけた。最近はそういうことをする。起き抜けに世界を無慈悲な角度で見ているとき、決まってヴォグラーズ・コーヴに行くのだ。そこで鳥を見ることが、考えを改める助けになった、たとえほんのわずかではあっても。図鑑を持参した。無音の早朝の光と、冷たい突風が混じりあう風景があった。二時間もしないうちに、ハシグロアビ一羽、ミミカイツブリ一羽、ウを数羽、マガモの群れ、ホンケワタガモ一羽、コオリガモ一羽、クロガモ一羽、ヒメハジロ二羽、ホオジロガモ十数羽をみとめた。

 

時のうつろいとともに変化する海岸の様子が描写され、鳥の名前が告げられるとき、その風景はサムの感情とともにある。どんでん返しやミスリーディングを警戒する読み手の目には、こうした描写は余剰のものかもしれないが、小説の空気をつくっているのはまさにこうした風景である。

 

 

ロバート・フランク以外にこの小説にカメオ出演している「実在の」人物がふたりいる。ひとりはエリザベスが研究対象にし、ロンドンまで会いにいった思い出が語られるイギリスのジャーナリスト/放送作家/小説家、マーガニタ・ラスキー(1915〜1988)。代表的な中編小説The Victorian Chaise-Longue(ヴィクトリア朝のシェーズ・ロング、未邦訳)は、病に伏した若い女性が、八十年前の同じ場所で、自身もまた別の肉体を得て目覚める、という一種の恐怖小説であり、「この世」の外側を問いかける本作に通底するモチーフになっている。

 

もうひとりは『医者の妻』や『沈黙のベルファスト』で知られる北アイルランドの作家ブライアン・ムーア(1921〜1999)。別のペンネームでスリラー小説を書き、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』の脚本を共同執筆し、三度ブッカー賞の候補になったムーアは、駆け出しの作家であるサムが私淑する書き手である。野鳥観察に出かけた海岸で当時カナダに住んでいたムーアとばったり出会った日の夜、サムはそのことをエリザベスに夢中で話す。

 

「今日、ヴォグラーズ・コーヴでだれに会ったと思う? ブライアン・ムーアだよ。断じてからかっていない」

「浜辺で失神したんじゃない、サム? カウチにでも卒倒した?」

「近所のカフェに来てたんだ。レモンティーとスコーンを注文してた」

「なにか話した?」

「声をかけてくれたよ、ほんの二言、三言だったけど。ぼくは、なにも返さなかった」

「じゃあその言葉を刺繍にして、額装してベッドの上に飾らなくちゃね」

 

ホラーやスリラーといったジャンルが持つ牽引力を持ち合わせた熟練の書き手であるふたりにオマージュを捧げるこの小説は、それ自身一種の暗い想像力にみちている。ホテルでの新婚生活を取り巻くキャラクターはみな、いわばノワール小説の住人だ。ホテルのポーターで殺人者のアルフォンス・パジェット。そのホテルでのダンス・レッスンの指導官で、客から賄賂を受け取って男女ペアの組み合わせを采配するアーニー・モラン。パジェットを追いつめる結果となる「取り調べ」をおこなう、ホテルつきの探偵デレク・バドニック。

 

ピーター・イストヴァクソン率いる映画製作チームも同様である。とりわけ、作中でエリザベスを演じることになっている女優、エミリー・カルマンの容貌がエリザベス本人にそっくりだという造型がふるっている。エミリーが浜辺を歩いているのを見たサムが妻と勘違いして声をかけるという、自己や他者の存在がはげしく揺らぐ場面は印象的だ。

 

(余談だが、イストヴァクソンのチームの撮影監督は「芥川」という名の日本人で、ノーマンが敬愛する作家への表敬が見て取れる。その連想もあって、このエミリーとサムの遭遇の場面に評者は芥川龍之介の「歯車」を思いだした。「歯車」は、「レエン・コオト」を着た「幽霊」の度重なる出現に語り手が追いつめられてゆく、不気味な迫力にみちた一篇だ。)

 

 

サムが毎日待望する夜はしかし、人間の内的な暗さを投影した、ひとの視界を狭める暗闇ではない。夜はむしろ、あらゆるものの位置が昼間以上にはっきりとする時間のことである。どんなゴシップもだれもが知るところとなる小さな街の人々のあいだで悲劇のニュースの主人公となってしまったサムは、あらゆる意味ではかりしれない、感情や思念にかき乱される。しかし夜の海岸にあるのは、ほとんど測定可能な距離だけだ。

 

今夜も浜辺で、いつものように、エリザベスは十一冊の本を並べた、だいたい二、三インチの間隔をあけて。彼女はその向こう五、六メートルのところに座り、膝を抱え、まるでそのうち一冊かあるいはすべての本が突然立ち上がり、みずからの意志で動きだすのではないかというようにそれらを見つめた。わたしはそれなりの正確さで、エリザベスが向き直って口を開くまでにどれくらい近づけるかを測れるようになっていた。第一声はわたしたちのあいだの距離で決まるのだ。どのくらいが彼女にとって心地いいのかがわかる。それはだいたい、十から十五メートルのへだたりだ。こうした説明に多くの測定が含まれるのに自分で気づいていた。おそらくは、こうして経験しつつあるたぐいの現実を、文字通り測定する必要を感じていたのだろう。

 

昼には見えないものを夜まで待ち、彼の周りをめぐり、しかしけっして降りてはこないものと、浜辺に立つ。これは天体観測ではないか、と気づく。望遠鏡を持って浜辺に出るという提案は、隔たってともにあるものとともにいることの暗喩でもあったのだ。

 

ともに物理的な〈実証〉を意識するサムとニッセンセン医師の決定的な違いがここにある。ニッセンセン医師は、サムという患者と、エリザベスという死者のあいだに距離を認めない。なぜならここでいう死者は、観察者に夢なり希望なりを託されてしまった星のような、患者の所有物であるから。

 

一方でサムは、ある明確な距離が、その先にいるエリザベスがたしかにいることの証しであるような場所に立っている。光年という、仮にであっても確かな距離を通じてこそ、その先にあるはずの星を生々しく感じられるように。

 

エリザベスの手触りが、離れてそこにあることと分かちがたく通じている場所では、一見すると測定と数字だらけの味気ない散文が、そのまま官能にみちた言葉になる。その距離の先にエリザベスがいる、ということ。事実、サムはエリザベスと言葉を交わしたあと、なぜか眠れなくなる、かつて愛し合ったあとにいつもそうなったように。

 

だが、星の暗喩にしたがうなら、サムに見えているエリザベスは、何年も前に発された光の名残ということになりはしないか? 「残像」だとして、それをどう理解すればいいのか。浜辺にいたのはやはり、サムひとりだけだったのだろうか? ロバート・フランクが写真の下に書き付けたメッセージの意味とともに、それは問いのまま残される。