戸山翻訳農場

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LANNY by Max Porter                     川野太郎

イギリスの若手作家マックス・ポーター二〇一五年のデビュー小説『Grief is the Thing with Feathers』に登場するカラスの佇まいは独特だった。妻を亡くしたばかりの夫と、その二人の幼い息子の元にやってきたカラスは彼らに「あなたがたがわたしを必要としなくなるまでいることにします」と告げ、ハウスシッターをしたり、彼らに物語をしたり、なにかと助言したりする。

 

タイトルの「悲しみには羽がはえている」という意味通り、このカラスは「喪に服している時間」の象徴でもあるのだが、印象的だったのは、このカラスの、獣っぽさ、である。夫がカラスの匂いを嗅ぐと、「そこには濃密な腐敗臭がただよっていた、賞味期限を切れたばかりの食べ物の、苔の、革の、イーストの、甘くて毛深い悪臭」。そして、「わたしの顔ほどもある巨大な目は真っ黒に輝き、革のような皺のついた眼窩のなかでゆっくりとまばたきして、フットボールサイズの睾丸から飛びだしているみたいだ」。この抽象性と生きものっぽさ、の同居は忘れがたい。マックス・ポーター四年ぶりの二作目『ラニー』にも、やはりこんな獣が登場する、さらに自由自在になって。

 

 

『ラニー』は、都会ロンドンを離れてちいさな村に移住してきた一家のひとり息子ラニーの失踪事件をきっかけに揺れる村を、詩的な文体で描くスリラーである。そして、本作において前作のカラスのような役割を果たすのが、デッド・パパ・トゥースワートと呼ばれる、森に棲み、村で起こるあらゆることを大昔から見聞きし続けている存在だ。

 

トゥースワートはいかようにも姿形を変えることができ、村の人々がたてる物音に耳を傾け、その声を糧にして生きている。トゥースワートが森で目覚めるところから、物語ははじまる。少し長いが、引用しよう。書かれている内容をまとめるだけでは得難い感触がある。

 

デッド・パパ・トゥースワートが一エーカーの広々とした立ちっぱなしの眠りから目覚めると、削げ落ちたコールタールの夢の残滓には汚水が飛び散りぎらぎら輝いていた。彼は横たわると大地の讃美歌に耳を傾け(だが聞こえず、彼はみずから歌いだす)、それから縮み、錆びたプルタブで切った口で吸い上げる、酸化した根覆いの濡れた肌とフルーティーな腐食性物を。彼はばらばらになりよろめく、別れまた集まる、プラスチックの鉢とかちかちのコンドームを吐き出す、砕けたファイバーグラスの風呂に立ち止まる、マスクにつまずいてはぎ取る。顔を触るとそれは昔埋められてタンニンの溜まったワインボトルでできている。ヴィクトリア朝のゴミ。(…)排気管のように立ち止まり、身をよじらせて形をかえる、ウサギ罠の形に、それから小便のかかったイラクサの形に、それから絞殺されたピンクの羊の形に。クロウタドリを空から引き寄せ黄色い嘴をこじあける。その顔の裂け目を覗き込む、澄んだ池を覗くように。それを森の一角に投げ捨て、むき出しの、茂った植林地である己の身体を持ち上げ、スポルテッドのついた足を鳴らす。(…)気難しいトゥースワートを楽しませるのはただひとつ、それは聴くこと。日没とぴったり同じ速度で島を横切り、お気に入りの場所に着く。その村はきちんと座ってかれに挨拶し、薄明かりのなかで揺れている。彼はキッシングゲートによじ上る。目に見えない、辛抱づよい、ノミのサイズになっている。じっと座る。聴く。

 

ポーターの獣は、生々しい細部の集積でありながらも、全身の姿は容易には掴ませない。村でこれまで起こった出来事の集まりのようでもあり、植物の寄せ集めでもあるようなこの怪物のユニークな振る舞いに、これはたしかに『Grief is〜』を書いた作家の小説だとわかる。

 

 

全体は三幕構成になっており、いわゆる地の文にたいして会話があるのではなく、戯曲のように、登場人物が交互に語ることでストーリーが展開する。第一部の語り手は、主人公の少年ラニーの両親と、ラニーに絵を教える地元の芸術家ピーター・ブリス、そして村に隣接する森の主、デッド・パパ・トゥースワートだ。村と森、またそこへ越したばかりの若い夫婦とその一人息子の日常生活の紹介となっているこの部は、ラニー失踪への前振りでもある。ラニーは、少し目を離したすきに、迷子になったり、物理的に移動不可能なはずの高い木の上にのぼっていたりする子供だった。トゥースワートはその彼のことを気にかけているようなのだが、その理由はどうやら、「森はいい人間とそうでない人間を見分ける」と語るラニーの、木々や水にたいする感受性の強さにあるらしい。

 

ラニーの母:

(…)彼はやがてわたしに、しゃくりあげながらささやきはじめた、ウォーターチャリティーのちらしに載っていたちいさな男の子はもう死んでいるかもしれない、と。

 

ぼくたくさん水を使ってる、お風呂でも、冷たい水を飲もうとするときも、庭に水をやるときも。

 

でもラニー、よく話し合ってるじゃない、壊れた世界はたったひとりでは直せないんだって。うちの蛇口から出た水をあのアフリカの子にあげることはできないのよ。

 

彼はまるでわたしがこれまででいちばんグロテスクなことを言ったみたいにこちらを見つめた。膝の上から降りた。表情は軽蔑で曇っていた。

 

おやすみ、ママ。

 

後半でラニーが行方不明になったとき、彼が抱いていた環境破壊へのオブセッションが、森の精を思わせるデッド・パパ・トゥースワートの助力につながっていくようである。エコロジカルな視点が恐ろしくもチャーミングなイメージに結晶しているところは、『となりのトトロ』をはじめとする宮崎駿のいくつかの作品を思わせる。

 

人々の語りで構成されたテキストは、すれ違いを描くときにこそ活きている。ラニーが行方不明になる第二部では、少年ラニーの失踪に直接・間接的に関わるさまざまな人々の見解が断章形式で語られ、ことなる世代や立場にいる村人たちがコミュニケーション不全を起こす様子があぶり出される。

 

ラニーの母ジョリーは、自身の親の世代にあたる、捜索に非協力的な隣人を非難するが、その直後にその隣人の語りがジョリーを糾弾するのは、象徴的な場面だ。両者に共通するのは、「あの世代が英国を駄目にしている」という意味の言葉だ。これはブレグジットに代表される、現在のイギリスの社会状況を思い出させる。

 

芸術や表現もまた、こうした状況にたやすく翻弄される。ラニーに絵を教えていたピートは、過去に手がけたセクシュアルな主題の作品を問題にされ、パニックになった村人たちに家を破壊される。またラニーの母はかなり露悪的な表現を含むスリラー小説を書いている人気作家だが、その出版が差し止めになってしまう。ここでは、作品と作り手の生活が天秤にかけられており、作品と生活両方の均衡が崩れるのである。

 

そしてこの小説そのものが、この問題にたいするひとつの姿勢を示している。ジョリーの小説にも通じるスリラーやサスペンスの枠組みを借りながらも、『ラニー』には一定の抑制がある。たとえば、ラニーが誘拐されて虐待されているということは、最悪のシナリオとして大人たちの脳裏によぎることはあっても、それが現実になったり、描写されたりはしないのである。(ただし、それが芸術やフィクション一般のあるべき姿として提示されているかといえばそうでもなく、すべてが解決したあとも、ピートは制作を続け、ジョリーはスリラーを書き続ける。)

 

第三部は解決篇ともいうべき内容で、第一部の語り手だった四者(ラニーの両親、ピート、トゥースワート)のやり取りを中心に構成されている。ラニー発見までの過程を描くこの部は、文字通りもっとも「芝居がかった」パートだ。ラニーの両親とピートは、デッド・パパ・トゥースワートから招待状を受け取り、村の公会堂でトゥースワートが催す劇に参加し、それぞれに舞台上でラニーとの再会がかかっている試練を与えられるのである。ラニー自身の未来、あるいは将来のラニーとの生活に希望を感じているかどうかが、デビッド・リンチの映画を思わせる悪夢的な「芝居」で試される――こうした謎掛けめいた試練はまた、児童文学やファンタジーの系譜を思わせる(評者がいちばんに思い出したのはドイツ語作家プロイスラーの、民間伝承をモチーフにした『クラバート』のクライマックスだ)。

 

ピートとロバートの試練を経て、最後の演者となった母ジョリーの前で、トゥースワートは時間を溯り、彼女に行方不明になってからのラニーの五日間を再現する。その幻影は、ラニーが触れものたちの記憶で構成されたものだった。幻のラニーを追ううち、彼が森のはずれの使用されていない下水管を秘密基地にしていたことがわかる。彼はそこで転落事故に遭い、閉じ込められていたのだ。再現された時間のなかで、少年の姿をしたトゥースワートが瀕死のラニーのもとにあらわれ、穴を覗き込み、両手からリンゴや様々な果実を実らせて落とし、最後には水を注いでラニーを生かす。本書でもっともマジカルな描写である。

 

ジョリーとロバートとピートが森のなかを、ちいさな声が聞こえるほうを目指して探すうち、ほかの人々も明かりを持って集まり、捜索がはじまる。このシーンは、第二部で村人が対立するのと対照をなしていて、共同体の可能性に思いを寄せずにはいない。

 

 

ポーターはガーディアン紙の取材に応じて、「たんなるアンチ・ブレグジットやアンチ環境破壊の小説は書きたくなかった」と言っている。「いまのイギリスをどんなふうに書けるだろうかということを考えたかった」。共同体の分断と再生、環境破壊、芸術と社会といったテーマを織り込みながらも、この小説がたんに筆者のメッセージを伝えるためだけのものではないと思えるのは、複数の声が、それぞれにユニークな質感をもって描かれているからでもあるだろう。ほとんど散文詩のような語りもあれば、「lol」(日本語だと「www」にあたるだろうか、爆笑、の意)のようなネットスラングもある。同じインタビューでポーターは語っている、「ぼくはスラングが好き。ヒップホップも。折り目正しい言葉遣いも好きなんだ」。

 

★著者による『LANNY』朗読